前原一誠という人物は、誰でも知っているというほど有名ではないかもしれないが、歴史上の人物である。吉田松陰の松下村塾生で、松陰の教えを最も忠実に受け継いだ人物とされている。詳しくは今後触れていくとして、その一誠とわたしの関係をご覧いただきましょう。
熊野勘介 ┠─────貞子 山縣勝介 ┌───フジノ ┃ ┠───┤ ┃ イネ └─────トミ ┃ ┃ ┃ 父 ┌─楊井清八─────クリコ ┃ ┃ ┠─わたし 楊井孫右衛門─? ┃ ┃ ┠──母 └───綾子 ┌─河北勘七 ┃ ┃ ┃ │ ┃ ┃ ┌─前原一誠 ├───佐世庄次郎 ┃ 佐世彦七 │ │ ┃ ┠────┤ 河北一 │ 嶺村素輔 ┃ 末子 │ ┠───┤ ┠───嶺村一枝 └───イト └───トシ
いささか複雑ではあるが、単純な系は、わたしの母方の祖父の母方の祖母の兄ということになる。
また、わたしの母方の祖母の叔母の姑の兄でもある。
さらに、未確定ではあるが、一誠の妻とも関係があるらしい。偶然かもしれないので、関係があるかもしれないと考えた根拠を挙げましょう。
当然ながら、同姓同名はあり得ないことではありません。一誠から離れてしまいますが、一誠の義弟、河北一にも、同世代の同姓同名の人物が同じ村にいたようです。
まず、一誠の義弟の方ですが、除籍謄本によれば、本籍吉敷郡宇野令村、1833.3.13生、1907.12.21没となっており、『幕末維新人名辞典』(編:宮崎十三八、安岡昭男、発行:(株)新人物往来社[1994])や、『山口地方史研究別冊 防長維新関係者要覧』(編:田村哲夫、発行:山口県地方史学会[1969])によると、吉敷郡宇野令村初代村長が河北一(諱は常道 初め正幸)という方ということでした。しかし、こちらは、1837年生、1911.12.22没となっており、別人のようです。ただ、年が生没とも4年ずれている上に、命日が1日違いというのもなんだか偶然にしては気持ち悪い感じがしますが。
一誠の義弟の方に関する略歴が全くわからないので、なんとも言えませんが、大きいお屋敷だったらしいとのことです。でも、初代村長だったら、その事実も伝わってよさそうなものですが...
やはり偶然ですかね。
Climbing the Hill | 010 | 012