岡部家の高祖岡部六彌太忠澄は人皇30代敏達天皇の後胤にして源氏に属し、その祖父岡部六太夫忠綱の代より武藏国榛澤郡岡部に住す、岡部の姓之より始まる。
嘉永3年2月7日攝州一の谷に於て平氏薩摩守忠度を討ち取りし大功により頼朝公より忠度の舊知行所なる荘園5ケ所其の他の厚き恩賞に與り、文武兼備の名将として其名天下に籍甚せり。
忠澄19世の苗裔に岡部出羽信安と云ふものあり。
筑前古處の城主秋月種實の家臣となり其子左右衛門佐信勝を経て刑部少輔信正に至り、天正15年其主種實豊太閤の九州征伐の大軍と戦ひ敗れて降を乞ふ。
故に食邑僅に三萬石を給せられ封を日向国に移さる。
刑部は主君が其の新封舊封に比すれば十分の一にも充たざる薄封の不幸に遭ひ到底数多の家臣を給養する能はざるを知り深く時運を達観し、終に辞職して舊領四三島に帰農し庶民となる。
爾来13世を経、現主岡部至に及ぶ。其間星霜三百有余の久しき、家系連綿としての畫一の如し。
本幹斯の如し其枝葉亦蓁々繁茂して枯凋する無し。
元に於てか其氏族皆宗家を尊崇愛護するの至情に燃え、つぶさに議して岡部出羽信安を以て中興の初代とし、去る明治廿八年秋本表を編製し、今回更に之を訂正し以て岡部家の遺戒に充つと云ふ。
明治四十有一年 仲秋 支族 岡部熊彦撰
『岡部家系図(昭和15年版)岡部進識』より