はしがき

悠遠幾千歳 第30代敏達のみかどに亘る皇統は仰ぐも畏こし 第52代嵯峨のみかどの左右に弘法大師 菅原の是善などとともに 文名才覺を史跡にとどむる小野の篁を経てその後約380年 六太夫忠綱の代より武藏国榛澤郡岡部に移る
岡部性茲に創まる
その孫に岡部六弥太忠澄なる智勇兼備の勇将出で源氏に属し 嘉永3年一の谷の合戦に於て平家随一の名将薩摩の守忠度を打取り その功により源頼朝より薩摩の守の旧知行荘園5ケ所 其の他厚き恩賞に預りその功名を青史に刻めり
その長男三郎廣澄は頼朝の命により豊後に入り 九州の岡部の祖先となれり
それより更に18代350年を経て 足利時代に岡部出羽信安なる武士ありて筑前古處城主秋月氏に仕へ その子左右衛門佐信勝*を経て刑部少輔信正に至り 四三島に移住するに到れり
即ち天正15年古處城主秋月種實は豊太閤の九州征伐の大軍を 添田の巖石城に向へて決戦し勝利あらず
その封を日向延岡に移さるゝに及び 刑部は深く時運を達観し終に辞任して旧領四三島に移り 戦国時代の風雲の動向を睨み静かに再起の秋を窺ひしも 世は豊臣より徳川の鎖国時代に切り替えられ脾肉の歎をこちつゝ その後幾百年ぞ家系の本幹斯くの如く
その枝葉繁茂して止まる所なく氏族一統宗家尊崇の至情に燃え 明治28年秋本表を編成しその後幾度か訂正補修し 昭和15年(紀元2600年)に至って刑部少輔夫人の墓を改修し 全国岡部會設立の事業に参與し岡部長景氏を推して總裁とし 總裁は仝年5月東京より下向し親しく岡部刑部夫妻の墓を展せり

その後世界大戦終末前後の時局 幾変転 憲法改正 伝統的家族制度の変更等 まことに目まぐるしきものありて今日に及べり

中興の岡部出羽以降本年を以て實に380年に当る
依って茲に血族一統一堂に会し巖かに祭典を営み 更に家系を補足して祖先に捧げその遺烈を追慕し 遺戒に充つるものなり

平成元年 中秋       委員識

『岡部家系図(平成元年版)委員識』より

   * 原文は左右衛門信勝


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