"のんちゃん"って!?

アルバムからいろいろな写真を探し出してきました

思い出すままに、その時々の拙文を書きました 
 
写真画像のダウンロードに時間がかかります
悪しからず、ご容赦くださいませ  m(_"_)m


  平成19年 9 月19日 お仕事年表をリンク( こちら
  平成18年10月17日 人生の分かれ道・四部作を追加
  平成12年10月15日 大学時代の詳細をさらに追加 

  平成12年10月11日 大学時代の詳細を追加    
  平成12年10月 8 日 小学校・中学校時代の詳細を追加



     

生後半年のころ(お向かえのおじちゃんの撮影)


     

戦災であちこちに焼け跡が


     

小6 自作のOゲージ車両を手に
弟の持っているのはEF16
掛け軸や「えべっさん」の置物が懐かしい
この写真は、当時マニラに赴任していた父に届けた


右腕の腕章は『スクール・ポリス』
学校は国道16号線(現26号線)の西にあるが
校区は東側にも広がっていて、今に比べると交通量は少ないとはいえ
信号機のなかった国道を小学生が渡るのは大変なことであった

そこで、高野線の千本通陸橋の直ぐ南(千本通に通じる場所)に
毎朝、警察官が来てくれて、その指示に従い、さお竹の先に
大きく「止まれ」と書いた旗を付けたものを振り下ろしていた
その仕事をするのがスクール・ポリスで、多分、一週間に一度の
当番制であったように思う その場所が下の写真


右の橋脚の手前から左隅の千本通りに渡る
26号線を渡るのは、この場所一箇所と決められていた

     

小学校卒業直後の春休み(校庭で)
担任ではなかったが、可愛がってくださったF先生と
後の百葉箱で気象観測のデータを記録したことが懐かしい
たこ焼きが1個1円。100円で買って「お〜い、H先生、たこ焼きあるでぇ〜!」
緑化運動と図書館活動が盛んだった母校
校歌のとおり、緑ゆたかな校庭になっている
ノーベル化学賞を受賞なさった福井謙一博士は、
小学校(旧玉出第2尋常小学校)と
高校(旧大阪府立第4中学校)の大先輩

後のガードは南海・汐見橋線(今もそのまま残る)
ガードの下を通るのは、旧勝間(こつま)街道
この「こつま」は、今東光和尚の「こつまなんきん」のそれである
こつまなんきん=大阪西成勝間村産の南瓜で、・・・


中学校は校区内に行かず、
世に言う「越境入学」をした。
それは、この中学と同じ名前の高校に行くためだった。

この中学、新制(戦後生まれの歴史の浅い)中学であったが
高校入学の為の進路指導には定評があったのだ。

小六の三月・・・ (人生の分かれ道 その1)

某区役所の学事課、転居の理由を正す係りの人。
「○○中学入学のためです」
「わたしも長い間ここにいてるから、だいたいのことは分かるけど、
 こんな正直にずばり言う人、いてへんがな。
 しゃあないな〜。
 おばあちゃんが居てはるから、この人には悪いけど、
 折り合いが悪うてみたいなこと、書いたらええわ」
どっちもどっちですが、お陰で無事に越境入学。
母の捨て身作戦が成功してなければ、当然地元の中学に。今はない!

     

中三の三月・・・  (人生の分かれ道 その2)

「センセ、これから出しに行ってきます」
記入間違い、記入洩れがないかチェックした担任、
願書をわたしに手渡す時、「大丈夫かっ」と。
「・・・」と無言のわたしの頭は真っ白。

そして、急いで家に。途中、涙がボロボロ。

「もう○○なんか行けへん。無理に頼んだんやろ」。
驚く母。
父は前の年から、六年の時に続き、マニラ駐在員として二度目の単身赴任。
出発前、両親は「入試時に不在となるので」と挨拶に出向いていた。
今となってはどのようにして高校名を書き直したのか・・・

三年生の担任以外の先生方が作る国数社理英の五教科を、
一年生時、二年、三年、そして全体の四回、一回五百点満点、
合計二千点満点の入試選定試験があった。
その一週間前、三年担任が作成する模擬試験が。
この試験、わたしは模擬は悪く本番が良く、オールスター男と
呼ばれてい。その名の由来は、パリーグの名選手・山内は
シーズンの成績は悪くてもオールスター戦ではきっちり何かの賞を手に。
「オールスター男」と呼ばれていた。


入試の一時間目は国語。その一問目は漢字を書け。
文章は覚えていないが、最初は「しはい」。『支配』が出てこず、
長考のあと空欄のままに。でも、不思議と動揺は全くなかった。

その夜、難波駅前の南街劇場で「戦場に架ける橋」を母と弟とで。
帰りの南海・難波駅の「住吉公園」行のホームで、
「試験、あかんかったわ」
「ほんま?」
「ウン」
暫くして、
「ちゃうやろ?」
「へへへへへ!!」
とニッコリ。
「あれやったら、全然問題にならへんわ」。


府立の試験は共通。○○高校に合格していたと思う。
もし落ちていても、滑り止めの私立高校には既に合格していた。
その高校、地学があった。入った高校にはなし。
でも、物理部で気象をやっていた。
○○だったら、気象関係に就いていたかもしれない。あるいは、考古学者に。
どちらにしても、今とは全く違う人生があったわけだ。


入社した会社では、わたしの代わりに電算を始めた人がいるはず。
するとその人がやってきたことは他の人に。
一方、わたしは誰かの代わりを。
今の家族もなかったし・・・


父からくれぐれもと頼まれ、オールスター男だったわたしですから、
担任もふと不安が過ぎったのだとは思うけれど、
あの時の一言が、「おい、頑張れよ!!」だったら・・・



余談ですが、高校時代に一目惚れをした人が・・・

確か高校に入って直ぐだったと思うのですが、高校入試のあった日の夕方、
戦場にかける橋を見た、なんばの南街劇場で見た映画の主演女優、Kim Novak。

この映画、ピクニックではウイリアム・ホールデンが相手。
その後、愛情物語ではタイロン・パワー、めまいではジェームス・スチュアートと。

因みに、邦画では、後に三橋達也夫人となられた安西響子。
安西さんからは、2、3回、真っ赤なはがきの年賀状を頂きました。



    

高校の文化祭でHO/クモユニ81を手に
物理部に属し、気象観測を
伊勢湾台風は徹夜で風向・風速などを観測




高校の屋上で ちょっと気取って、ハイ、ポーズ!


高三の二月・・・  (人生の分かれ道 その3)

父は当然、自身への母校への入学を望んでいた。でも、成績がねぇ。
担任と相談の結果、大阪北にある某と父の母校。そして京の有名私学。
工学部、機械学科系を。

大阪北の某に友人と願書を持って行った。
学校付近は凄い悪臭。そう、敷地の直ぐ横をどぶ川が流れていたのだ。
この匂いに、願書を提出せず帰って来た。
(今は勿論改修され・・・ 40年後、ここで受験することになるとは
 4年後、小中高とわたしと同じ道を通った弟がこの大学に入った)

この前に、京の別の大学に願書を出しに行く友人に、
「願書、取ってきといてくれる」と何気なく頼んでいた。
でも、本気ではなかった。
その理由は、技術系は数学・物理or化学・英語の三教科だったが、
英語の足切りがあったのだ。父には悪いが、兄弟とも英語に弱かった。

北の某を止めたため、仕方なく(?)京の別大学に願書を提出。
第一志望は「機械」、第二志望は「土木」だった。
鉄道や飛行機が好きだったので、地元の車両メーカーで電車の設計か、
航空機整備の仕事に就きたかった。

父の母校、一日目だけで止めてしまった。京の有名校、難しかった。
足切り校の英語、どっちがどっちだか思い出せないが、
「Hungary」か「hungry」の単語が出ていた。
やっぱり、「駄目で!!」と思った。

でも、結果発表は見に行った。他の二つは駄目と分かっていたから、
"ここでなければ、浪人んか"、来年はどこを・・・

機械工学科の掲示、探したがなかった。やっぱりなぁ!
土木工学科を探した。何回も探した。やはりない。ちょっとしょんぼり。
その時、声がした。「お〜い、こっちにあるでぇ〜」と友人の声。
離れた場所からだ。それはないやろ、と思いながら、歩を運んだ。
あった! 番号と氏名、間違いない!!
(当時は、名前も張り出していました)
あとから考えると、二次志望では何点か減点してはめ込むので、
それらを一次の人達とは別の所に掲示したのですね。
ということで、京の慶応は駄目でしたが、京の早稲田に合格。に

家に帰ると父は、「土木か。良かった良かった。日本語は土と木やけど、
向こうでは、"civil engineering"ていうてな、市民のとかみんなのと
云う意味や。これからの日本に大事な仕事や」と喜んでくれた。





高校卒業後の春休み
大正年間に建てられた家 今はこの面影は全くない


     

専攻は理工学部土木工学科 卒業は放送学部アナウンス科(?)
衣笠キャンパスでの学園祭前夜祭の司会を務める




3回生の夏休み 1ヶ月の企業実習が必須単位
某道路会社の寮に寝泊まりし、
さる自動車会社の大阪配送センターの駐車場の新設舗装工事を
その広さは2万5000平方bにもおよぶ
砕石を積んで来るダンプの運転手と口論も懐かしい
この夏、3kg強体重が増えた。翌年はここでバイト。また増加!
真っ黒に日焼けした顔、長靴を履き、ヘルメットを被り
タオルを首に巻いた作業服姿に、
混雑している電車の中でも少し隙間が出来ていました


四回生の五月・・・  (人生の分かれ道 その4)

学生部の求人掲示板。おやっ!?
・・・
(おっきいもの・MC鉄塔物語・卒業研究に掲載)



     

入社1年目も体重増加、結局3年で10kg増
体力を消耗する前に自己防衛のためでしょうか
夏は蒸し風呂 扇風機を足元で廻し、シャツ姿での勤務
重い重い製図板でした 計算尺と手回し計算機の時代です
鋼管製送電鉄塔の設計や製作図の作成に従事

わたしの人生を変えたFortran言語(プログラミング言語)に出会う


算盤と計算尺


手回し計算機
学卒初任給2万円 新品の計算機は5万円でした


     

時は流れ、入社2年目の夏
工場現場で、汗だく・・・
今、この工場の様相は想像できない


  
烏帽子型鉄塔(左の写真)のてっぺんで(向かって右がわたし)
"原子の灯を万博に"を合い言葉に建設が進められた若狭幹線
その鉄塔のひとつ(現在の京北開閉所)で地上高40m位(?)
右の鉄塔は、設計・製作を担当したG形鉄塔(亀岡付近・建設中)で地上高70m位(?)


東京電力の第二東京中線(現新古河線)のPKc型鉄塔
設計条件が複雑で、とても楽しかった。製作も担当し、図面も画いた
東北本線・栗橋駅近くだが、今でも立っていると思う・・・

入社して7年、送電鉄塔の設計や製作を担当していた
手掛けた鉄塔は関西電力の若狭幹線・海南火力線・喜撰山線
東京電力の福島幹線・第二東京中線・第二福島幹線などなど

今もしっかりと地面に踏ん張って、大都会に電力を送り届けている


その後、電算室の設立と共に移籍し、情報処理一筋の30年であった



これからも、アルバムから写真を拾い出してみようと思います



「お仕事年表」は、こちらです 2007(平成19)年9月19日 

追加 平成19年 9 月19日(2007)
追加 平成18年10月17日(2006)
追加 平成12年10月15日(2000)
追加 平成12年10月11日(2000)
追加 平成12年10月 8 日(2000)

追加 平成12年 9 月28日(2000)
追加 平成12年 9 月16日(2000)

追加 平成12年 9 月10日(2000)
作成 平成12年 8 月20日(2000)




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