いつか見た色合い





        花が散った。緑が生まれた。そんな季節のことだった。
        私はといえば,多忙な毎日の中で,
        そんな微かな移り変わりを虚ろに眺めているだけだった。
        「しばらく家を空けるね。」
        そう言って彼が出ていったのは一月前のことだった。彼にも彼の都合がある。
        それはわかる。でも五月は‥‥‥‥私の誕生日がある。
        忘れているのかしら。あれ?それ以前にあの人,私の誕生日知ってたかしら。
        ‥‥‥‥少し不安になる瞬間。
        私という存在,それが彼にとってどういう意味を持つのか‥‥‥‥。



         私達が一緒に住み始めて半年近くがたった。
        あの人が自分の世界に戻れないと知った時,
        私の心には多くの悲しみと,そしてわずかな喜びが生まれた。
        それは決して否定することのできない事実だった。
        そう,私はずっと彼と一緒にいられることを望んでいた。
        その願いはかなった。しかしそれは同時に,私の心に小さな傷を残すことになった。
        「君が気にすることじゃない。」
        あの人はそう言ってくれた。多分その通りなのだろう。だけど‥‥‥‥
        なぜかこの胸の痛みは消えなかった。
        「それじゃ‥‥‥わがままをひとつ聞いてよ。」
        そして私達の生活が始まった。
        でも私の心には‥‥‥いつも何かがわだかまっていた。



        「あら,メイヤーじゃない。」
        市場の雑踏の中で声をかけてきたのはカレンさんだった。
        彼女も夕飯の買い出しに来ていたようだった。
        「ちょうどよかったわ。ね,ちょっと頼みたいことがあるんだけど‥‥
‥
        これからちょっといいかな?」
        夕飯までにはまだ間があったし,断る理由もなかった。
        「ええ,構いませんけど。」
        私達はカレンさんの行きつけの喫茶店に入る事にした。
        「頼みっていうのはね,その‥‥‥ある人に届け物をしてほしいのよ。」
        「届け物‥‥ですか?」
        「ええ,ちょっと大事なものでね,運送屋さんとかには頼みたくないんだ。
        そんなに遠くじゃないのよ。アーシアっていう‥‥ほら,歩いて半日くらいの町。」
                「あ,アーシア?‥‥‥ええ,もちろん知ってますけど‥‥‥‥。」
             そこはあの人が研究で訪れている町だった。もしかしてカレンさんは
                そのことを知っていて私に頼んでいるのだろうか。
                「本当は自分で持って行きたかったんだけどね,ちょっと急用が入っちゃって‥‥。 
                ね,頼まれてくれるかな?」
        断る理由はなかった。私は了解した。
        「よかった〜。ホント助かったわ。このお礼はいつか必ずさせてもらうから。」
        ‥‥‥‥あの人に会うのは久しぶりだな。私は早くもそんなことばかり考えていた。
        カレンさんから届け物を預かると,私は次の日の朝早く家を出た。
        その日は雲一つない青空だった。私はそんな空が少しうらやましかった。



        「あのう,カレンさんからお届けものを預かって来たんですけど‥‥‥‥。」
        アーシアに着いた時にはもう夕方になっていた。
        少しのんびり歩き過ぎたかもしれない。
        運の悪いことに,少し夕立にあってしまった。
        「おやおや,これはまたすみませんでしたねえ。どうぞお上がりになってください。 
        ほら,雨露を拭いて,いま温かいものを持って来ますから。」
        出て来たのは初老の温和な女性だった。
        私は体を拭きながら,彼女がいれてくれたミルクココアを口にした。
        体が芯から暖まってくる感じに,少し心が緩んだ。
        「よろしければ今晩はお泊まりになっていってはどうです?
        お食事も用意できますけど。」
        「あ,いえ。この町には知人がいますので,
        そこで泊まっていこうと思っていまして ‥‥。」
        私は彼女の申し出を丁重に断ると,あの人の住んでいる借家に向かうことにした。
        「それではこれをお持ちになって行ってください。
        お口にあうかどうか分かりませんが」
        そう言って彼女が差し出したのは焼きたてのパイのだった。
        「え,いいんですか?」
        「わざわざ届け物をしてもらったんですから,これくらいのお礼はいたしませんと」
                私は礼を言ってその家を後にした。そのころにはもう雨は止んでいた。
               彼は自分の研究の整理のためにこの町に来ていた。
                私の研究とは分野がちょっと離れていたため,
                彼は一人でこの町へ来た。それについて私がとやかく言う理由はなか った。
                でも私の心に,ほんの少しの嫉妬と淋しさがあったのもまた事実だった。



        「あれ,メイヤー?‥‥‥‥なんでまたこんなところに?」
        彼は相変わらずだった。
               「なんで,じゃないですよ。あんまり長いこと音沙汰がないから,
        浮気でもしてるんじゃないかと思って見に来たんです。」
        私はすました顔で言った。
        「それ‥‥‥‥‥‥マジ?」
        彼は真剣な顔で聞いてきた。
        「もう,そんな訳ないでしょ。ちょっと用事でこの町に来たから寄ってみただけです。
        あ,まさか本当に浮気してたんじゃないでしょうね。」
        「ははは,まあ入りなよ。」
        私は彼に連れられて小さな借家に入った。彼はちょうど食事をしているところだった。
        「あ,またこんな栄養の偏ったものばかり食べて。
        やっぱり男の人に一人暮らしはさせるもんじゃないですね。」
        「そういうお前こそちょっとは料理の腕上がったのか?」
        「い,いまは修行中です。でも前ほどひどくはないですよ。」
        そう言うと私は用意してきた材料で自分の夕飯を作ることにした。当然のごとく,
        彼は横からつまみ食いをしてきた。
        「どれどれ‥‥‥‥お,こりゃなかなかのもんじゃないか。」
        「そ,そうですか?」
        私はちょっと照れてしまった。
        「ん,うまい,うまい。」
        こういう雰囲気も久しぶりだった。
        たわいない会話,たわいない笑い,不思議と心が休まる瞬間‥‥‥‥。
        私は自分が食べるのも忘れて,彼がガツガツと私の料理を口に運ぶのを眺めていた
        (彼は自分で用意していた夕飯を完全にほったらかしにしていた)。
        「あ,実はパイをもらって来たんですよ。デザートにどうです?」
        彼は口を食べ物でいっぱいにしながら,うんうんと首を縦に振った。
        「もう,ちょっとはお行儀よくして下さい。」
        私はクスクスと笑いながら言った。 
        私はパイを切り分けると,家から持って来ていたダージリンを入れた。
        パイは本当においしかった。アップルをベースにしたシンプルなのものだったが,
        皮の焼き加減や砂糖,小麦粉の量が絶妙で,
        とけるようにどんどん口の中に入っていった。
        「へえ,これカレンさんの知り合いが作ったのか。」
        一息入れた彼が満足そうに言った。
        「優しそうなおばあさんでしたよ。
        やっぱりあのくらいの年になると,お料理の腕もちょっと違いますね。」
        私はすっかり感心してしまっていた。
        結局その日のうちに二人で一枚全部食べきってしまった。
        ‥‥‥今日は一日よく歩いたとはいえ,これはちょっと食べ過ぎかな?
        「さてと,おれはもう寝かせてもらうことにするよ。
        実はここんとこ徹夜続きでね,眠くてしょうがないんだ。」
        私も疲れていたので一緒に寝ることにした。ベッドが一つしかなかったので,
        彼はソファで寝ると言い出した。
        「そんな,疲れているんだからベッドで寝て下さい。
        ソファじゃぐっすり眠れないでしょ?」
        「だいじょぶ,だいじょぶ。俺どこでも熟睡できる人間だから。」
        彼は屈託のない笑みを浮かべながら言った。
        「そう‥‥ですか?」
        こんなことで言い合いをしても仕方がないので,
        私は彼のベッドを使わせてもらうことにした。



        私達が床についてから三十分位たったころのことだった。
        私は半日歩いていて疲ていたにもかかわらず,何故かなかなか寝付けないでいた。
        「‥‥メイヤー‥‥‥‥‥‥起きてる?」
        突然彼が声をかけて来た。
        「ええ‥‥‥‥起きてますけど‥‥‥‥。」
        すっかり寝ているものだと思っていたので少し驚いた。
        不思議なことに彼の声に気は感じられなかった。
        「メイヤー,俺が元の世界に戻れなかった事‥‥‥どう思ってる?」
        「え!?」
        私は彼の突然の質問に少し戸惑った。
        「つまりその‥‥‥そう,例えば俺が今自分の世界に戻れるってことになったら,
        メイヤーはどうする?」
        「‥‥‥‥どうするって‥‥‥‥‥‥。」
        「‥‥つまり‥‥‥‥‥‥‥俺を止める?」
                短い沈黙が訪れた。
                「‥‥‥‥どうしてそんなこと聞くんですか?」
        私は静かな声で尋ねた。
        「‥‥‥ただ,なんとなく‥‥‥‥‥‥‥かな。」
        私は少し悲しい気持ちになった。それがなぜかは分からなかったけれど。
        「あなたは‥‥‥‥どうなんです?」
        「え?」
        「あなたは‥‥自分の世界に戻れるって事になったら‥‥‥‥
        やっぱり帰るんですか?」
        今度は長い沈黙が訪れた。
        「‥‥‥‥さあ。その時になってみないと分からないよ。」
        「私も‥‥‥‥そうです。」
        私はなぜか瞳に涙が浮かんでくるのを感じた。
        しばらくしてまた彼が口を開いた。
        「‥‥‥‥故郷って,何なのかな。」
        彼は誰に言うともなくそう言った。
        「思い出がある処‥‥‥‥じゃないんですか?」
        「懐かしく思う処,家族がいる処,心の安息があるところ,
        ある日ふと思い出す処‥‥‥‥。言い方はいくらでもある。
        でも本当にそうなのかな。」
        「あなたにとっては‥‥‥‥戻るべき処じゃないんですか。」
        私は言ってから後悔した。何故そんな言葉が出たのか自分でも分からなかった。
        「‥‥戻るべき処,か‥‥‥‥‥‥そう,そうなのかもしれない‥‥。」
        私はそっと彼の方を見た。彼はじっと天井を見つめていた。
        だがその目に映っているのは別のものだった。
        珍しくその表情からは感情を読み取ることができなかった。
        「‥‥‥‥人が生きていくうえで必要なものはそう多くない。
        むしろ邪魔なものの方が多い。」
        「‥‥でも‥‥‥‥だから退屈しないですみます。」
        「退屈は罪悪,か‥‥‥‥そういや昔どっかの詩人がそんなこと言っていたっけ。」
        急に私の頭に眠気が襲って来た。今はそんな気分ではないはずなのに。
        やがて長い沈黙の後,彼は一言だけこう呟いた。
        「‥‥‥‥故郷ってのは,どこにでもあるもんだな‥‥‥‥‥‥。」
        そして私は深いまどろみの中に沈んでいった。



         空が蒼かった。そのまぶしさに朝の空気もどことなく上機嫌な気がした。
        鳥たちの声が耳に心地よかった。
        帰り支度を終えた私は彼を起こさないように最低限の掃除をした後,
        彼の朝食をテーブルの上に用意しておいた。
        置き手紙を書こうかとも思ったが,なにかわざとらく思えたのでやめておいた。
        そして私が玄関を出ようとしたときだった。
        「め,メイヤー。どこだ?まだ帰ってないか?」
        急に奥の方から彼の声が聞こえて来た。   
        「あ,玄関にいますけど‥‥。」
        するとパジャマ姿の彼が大急ぎでやって来た。
        「あ‥‥。ふう,よかった。危うく渡しそびれるところだったよ。」
        そう言うと彼は何かを差し出した。
        「はい,これ。」
        「え!?」
        それはリボンの付いた小さな箱だった。
        「ほら,まだしばらく帰れそうにないから,
        ちょっと早いけどバースデープレゼント。」
        「あ‥‥‥‥。覚えてて‥‥‥‥くれたんですか?」
        彼は何も言わずポリポリと頭をかいた。
        私は小さな箱を開けてみた。
        そこに入っていたのは真新しい日記帳と古びた詩集,そして小さなイヤリングだった。
        「これ‥‥‥‥。」
        「実は人マネなんだけどね。
        こういうとき何を送ればいいかちょっとわかんなくて‥‥‥。」
        私はしばらくそれらを見つめていた。
        その間彼はなんだか照れ臭そうに笑っていた。
        「あ,あの‥‥‥‥‥‥。」
        「うん?」
        私は顔を真っ赤にしていたかもしれない。
        少し胸が高鳴っているのが分かった。
        彼はというと,私がプレゼントを気に入ったかどうかちょっと不安そうな感じだった。
        「あの‥‥‥‥‥‥は,早く帰って来て下さいね。」
        彼はいつもの調子でじっと私の顔を見つめてきた。
        そしてその顔に満面の笑みを浮かべるとこう言った。
        「うん。」
        空が蒼かった。それはごく平凡な一日の始まりだった。
        そう,平凡な‥‥‥‥‥‥‥‥‥。


                                  < 終 >






        <後書き>         まずはメイちゃん,おたんじょーびおめでとぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ!!         いやあ,しかしものの見事に卒論の中間発表に重なってくれたわい(爆)。         しかし‥‥‥‥よく         考えたらエタメロでラブコメ(笑)のSS書くのって初めてだ。         いかに僕がアウトローかってのがよく分かりますな。         だってぇ〜,ラブコメってマンネリになりやすいしぃ〜,         書いて自分が恥ずかしいっていうかぁ〜,ようするに書きにくいってカンジィ〜?         (てめぇいっぺん死んでくるか?)。         なにはともあれ,こういうお題があってのSS         (そこまでたいそうなもんか?)って疲れる。         まだ座敷牢のほうが楽に書けたなあ(はっ!殺気!!)。         そ,それじゃ今日はこの辺で。         それからほんのちょっとでもいいですから,         感想送ってもらえるととっても嬉しいです         (座敷牢以外SSの感想ってほとんど聞いたことない。         こんなことならそういう路線のばっか書いちゃうぞぉ)。




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