ウィーンで学ばれたホルン奏者しまふくろうさんから、当団ホルン奏者たち(退団者含む)のエピソードをお寄せいただきました(お寄せいただいてます>現在進行形^^;)。
そもそもは、私宛ての私信という形であったのですが、こんなに面白い話を私だけが享受するのはあまりに勿体ない。
というわけで、しまふくろうさんにご許可をいただき、当ページへ転載させていただくことにいたしました。
「偉大なるウィンナホルン奏者たち」の素顔の一端をお楽しみいただければ幸いです。
そして、何よりも、このような素晴らしいエピソードをご紹介くださったしまふくろうさんに、感謝。


◆筆者自己紹介◆

しまふくろう

87−90年ヴィ−ンにてホルンをG・H氏に師事。
テアター・アン・デア・ヴィーン管弦楽団に所属し数多くのヴィーナホルン奏者と交流を持つ。
90年帰国後は最北端のオーケストラでホルンを生業としている。
フォルカーの部屋のファンで、フォルカー氏とのメールのやりとりからこの転載を求められ、快諾。



ヨハン(ハンス)・フィッシャー(Johann Fischer)

白髪の紳士という印象が強いフィッシャー氏は、私の日本での師匠C・K氏と同年の同じ誕生日だった気がします。(御健在であれば72歳かな?)
ヴィ−ンフィルマニアなら、ザルツブルグの街を革製の半ズボンで自転車にホルンをくくり付けて走っている写真(後ろ姿)を御覧になった方もいるはず。
その方がヨハン・フィッシャー氏です。
口ひげをたくわえ、いつもにこやかにホルン部屋に入って来てゆっくり、静かにロングトーンをする姿が思い出されます。
とても物静かな方で、賑やかなホルン部屋の中で話に首を突っ込む訳でも無く、でも無関心でもなく、時々ニコッと笑われるのです。

定期演奏会でR.シュトラウスの「ドン・ファン」が数週間後に控えたある日、彼は4番ホルンに出てくるソロ(ほんの2小節のソロですが、ちょっと難しい!)を何十回もさらうのです。集中して!
その怖い程の真剣さは忘れられません。
それと、一度私がレッスンの合間に楽器を椅子にマウスパイプを上にして置いた時、「もし上から物が落ちて来たら楽器が一発で(マウスパイプが)駄目になるからこうやっておきなさい」と親切に置き直して頂きました。
その言い方も押し付けがましくなく、相手を思う気持ちがとても伝わって来て感動しました。

個性的なホルン奏者達の中でその物静かな態度は空気の様ではありましたが、空気が無ければ生きてゆけないように、ホルンセクションも彼のような人物がいてこそとてもいいまとまりがあったような気がします。
彼も定年より数年前に引退してしまった時はとても残念に思いました。



ヴィリバルト・ヤノシュツ(Willibald Janezic)

通称ヴィリーと呼ばれて皆から慕われている彼はいつも陽気で明るい。
彼の事で思い出すのは、ムズィークフェラインでフィルハーモニカーの練習の後、私は師匠と待ち合わせをしていて一緒に道を歩いていると、車を止め手を振り声を掛けながら降りて来る人がヴィリー。
しかし、その車の小さい事小さい事!
なんかミニカーみたいな感じで小柄の彼が降りて来るから尚更小さく見える。
車も結構年代物で今にも止まりそうで、「あれぇー?」とか言いながら後ろを蹴ったりして首を傾げている姿はギャグそのもの。
ひょっとしたら一人乗りの車?かもしれない感じでした。

いつもタバコを離さず、オパーでビールを飲み独特の訛りで話す姿は、、、「気さくな酔っぱらいおやじ」で、「天下のフィルハーモニカーのホルン吹き」には間違っても見えず、憎めない可愛いおじさんです。
彼の教えているホッホシューレで当時韓国から来ている学生がいて、その学生が作るキムチを食べたら病みつきになってしまいさぁ大変!
それ依頼いつもヴィリーが学生の住んでいるアパートまで貰いに行くのだそうで、そのアパートに近づくと段々ニンニクの香りが漂って来て目尻が下がり、アパートの中に入ると犬のごとく舌が出て困るのだと話していました。

彼のキャラクターは完全にセクションの潤滑油的存在。
それをわきまえている姿はホルンセクションというアンサンブル楽器の持っている宿命を感じました。



フリードリヒ・プファイファー(Friedrich Pfeiffer)

映画俳優ばりのマスクの持ち主である彼は、私生活でもサングラス姿でBMWを乗り回す格好良さ。
彼は10代でヴィーン・トーンキュンストラーに入団し、天才の名を欲しいままに国立歌劇場〜フィルハーモニカーと階段を駆け上がった人。
ハンサムで若い天才はちょっとクールでニヒルなホルン吹きでした。
私がいた87〜90年は天才に影が見えて来た頃で、指揮活動もしたり(確か新日本フィルを振っているはず)してました。
本業のホルンはアムブシュアを壊したりでちょっと弱気になっていましたね。
ホルンが大活躍する「バラの騎士」でも、ソロで音が逃げてしまって残念な演奏がありメンタルな面でも苦しんでいる様でした。
何回か休暇(病欠)を取って復活を試みましたが難しく、ケルンの名教授、ペンツェル氏の元で3ヶ月程修行に入りました。
大学生と一緒に寝泊まりし、大変な生活だったそうです。
ペンツェル教授はトロンボーンの様な大きなマウスピースでフォルテを吹いて、今までの筋肉の使い方を忘れさせる訓練をさせたそうです。
3番奏者として復活した彼は暫く頑張っていましたが、最近のシフト変えで4番に移ったとの事。
とにかく若い奏者に1番を吹かせてセクションのシフト変えを頻繁に行うフレキシブルな見本のオケですが、彼の年令で4番へのシフト変えはちょっと残念です。
一度は天才と呼ばれたことで 良し とすべきなのでしょうか?



ヴォルフガング・トムベック・ジュニア(Wolfgang Tomboeck.jun)

彼の姿を初めて目にしたのは1980年10月6日、東京の昭和人見記念講堂の落成記念演奏会。
オケはウィーンフィル、そして指揮はべ−ム、物はベートーヴェンの交響曲第7番でした。
入団したての彼は師匠をアシスタントに従えての演奏でしたが、皆さん御存じの通り7番はホルン泣かせの難曲です。
始まってすぐにハイ-Eの連続ですし、ずーっとフォルテで吹いた後いきなりピアノでソロがあったりで息つく暇もありません。
当時音楽大学の学生だった私は、ホルンの学生仲間と大挙押し寄せ、黄金の組み合わせを楽しみに演奏会に向かったのを覚えています。
しかし結果は大事な箇所はすべて地雷を踏んでしまったような演奏、、、。
そして私が留学していた時、普段人とあまり話さない彼は(ビールも一緒に飲まない)挨拶はするけど自分で壁を作ってしまっていて私にはちょっと遠い存在でした。
ある定期演奏会での事、彼の演奏がとても素晴らしかったので私は終わった後に彼を探してその感想を賞賛の言葉で表ししばらく話をしていました。
上機嫌だった彼は笑顔で受け答えてくれました。
そして、僕は実はあのベト7聴いていたんだよねぇ、、、と言った途端、いきなり首を何回も振り出して

頼 む か ら 二 度 と そ の 話 は 僕 に し な い で !

さっきまでの笑顔は何処へやら、、、。 いきなり雰囲気は悪くなるし、ゴメンネ、、、と言うのがやっとでした。
彼はガラスのハートの持ち主だったのです。
ちなみに私の師匠なら そんなん忘れた! で終わり。

後日談ですが、あの時練習で見なれない若いホルン吹きを見つけたべ−ムがなぜいつものメンバーでやらない?と御立腹。 すると師匠が、
「マエストロ!彼は将来のヴィ−ンフィルを背負って立つ男です!
 是非マエストロの指揮で経験を積ませてやって下さい!」と頼み、 渋々認めたもののあの結果でガラスのエースは傷ついてしまったのでしょう。

彼の名誉の為に1983年の来日公演での話。 私が薄々自分の求めているホルンセクションの音はヴィ−ンフィルだなぁと感じていた頃の事、、。
指揮はマゼ−ル、物はマーラーの第5番。
御存じホルン吹きなら注目の公演で登場したのがトムベック!
有名なスケルツゥオももちろん凄かったでんすが、私の脳天にハンマーを見舞ってくれたのが5楽章の冒頭。
有名な弦楽合奏の4楽章が終わって夢の世界から新たな世界へ旅立つきっかけの重要なホルンソロ。
白玉音符で泣かせることのできるホルンの独壇場!
やってくれました!雲の中から後光が射す瞬間とでも申しましょうか、、、。
その時やはり聴いていた私の日本での師匠バーチは
「参った!あんなのそうできる奴はいないよ、、凄かった。」

ガラスのエースは三振もするけどホームランを打つ時は場外なのです。



ロナルド・ヤノシュツ(Ronald Janezic)

私のレッスンはオパーのホルン部屋で行われ、なおかつレッスンの延長線上にオケピットに入っての実地訓練があって、(もちろん、彼等の後ろや師匠の隣で見て、聴いて、です。)
とにかくオケとは、アンサンブルとは、を身近で体得してました。
私がいた頃は現首席のロナルドもまだ学生でしたので、一緒にオケピットに入ったりしてました。
彼はとても天真爛漫で愉快な学生で、指揮科の学生の為のオケでも時々一緒に吹き、そこでの彼の有名な話をひとつ。
ドボォルジャークのチェロ協奏曲は御存じのように有名なホルンソロがありますが、その時ロナルドが1番を吹いていてそのソロをド素人のように吹きまして指揮科の教授が おぃ!何を吹いてるんだ? 君はこの曲を知ってるのか?
すると彼は、 い い え !。
その教授は仕方が無いなぁと言う感じでいろいろ説明し、そしてもう一度。
するともうさっきまで吹いていた彼は居なくなり、別人のような素晴らしい演奏をしたのです。信じられない演奏でした。
だんだん実力をつけてきた彼はエキストラとしてオパーに出演する様になりあれはアバドの振ったエレクトラのプレミエ。
この曲は一段ごとに転調があったりの難曲で、ロナルドはたしか5番ホルンで吹いてました。
私の師匠曰く彼は3時間のオペラほとんどを暗譜で吹いていたそうで、物凄く誉めていした。
たぶんあの演奏がきっかけでオケへの入団が加速したと思います。
ちなみにこの演奏はLDで出ています。
それからカラヤンの伝説のラストコンサート。
師匠はアンサンブルの仕事の関係で最初から降り番。
吹くはずのトムベックが病欠でキャンセル、もう一人のプファイファーは調子をくずしお休み期間。
あわてたオケはいろいろなホルン吹きに連絡を取ったものの最終的に捕まったのがかのピッツカ!
曲はブルックナーの7番。
御承知の通り5番ホルンはワーグナーホルンの独壇場です。
そこで出ました!ロナルド!
オケの窮地を救う大ホームラン!見事でした。
後日談ですが、その時1番をドッペルホルンで吹いたピッツカ氏。
カラヤンに手紙を出して、よく頑張ってくれましたありがとう!と、言う返事をもらったそうです。
それ以来彼の経歴にはカラヤンのラストコンサートで絶賛を博す、とあります。
これもCDがでています。ロナルドの2楽章最後の延ばしは見事です。



ヴォルフガング・トムベック・シニア(Wolfgang Tomboeck.sen)

あれは魔弾の射手でした。本番の前はホルン小部屋でタバコを吸ったりひと吹きしたりてベルをまちます。
イタリア物などはみんな緊張感なくほんわかムード。
しかし、この曲はみんな黙々とさらって調子を整えている。
目つきが違うんだよね全然。
そして誰が合図する訳でもなく始まるあのメロディー!
あうんの呼吸とはあの事を指すのです。
その時のメンバーは1 師匠、2 ?、3 ベルガー、4 トムベック父。
まぁ凄いメンバーでございました。
師匠も私に目配せをして静かにしていろ!の指示。
言われなくても恐れ多くて声はでませんけど、、、。
4番に降りた父はさらっている時、どうして4番吹いてるんですか?と言う感じ。
上から下までもうビロードのようなレガートでお吹きになるのです。
以前ベルガーと二人で首席だった頃(師匠曰く)、ベルガーはR シュトラウスやマーラー、ワーグナー等の曲を中心に、そして父はハイドン、モーツァルトなどのハイトーンのスペシャリストとしてお互いうまく住み分けをしていたそうです。

ゴーバーマン指揮のハイドンのマリア テレジアのテープを以前トーンキュンストラーのホルン奏者からもらって聴きましたが父の吹いているホルンは 凄い! の一言でした。
普段の父はとにかく恐い感じであまりしゃべりません。
しかし、師匠がいいソロを吹くと右手を静かに上げる(素晴らしい!ブラヴォーの意味)姿がとにかく威厳があってセクションとして素晴らしい支え振りでした。

あの赤ら顔の頑固おやじがもうオケにいないと寂しい限りです。



ローラント・ホルヴァート(Roland Horvath)

ヴィーンのハンス・ピツカとも言われる人物で、世界中のホルンシンポジウムに必ず出現し民族衣装でブースに立ちヴィーンヴァルトホルン協会の譜面や自分のCDを売っているところからそう言われているのでしょう。
確かに世の中にヴィーナホルンを広めているのは自他共に認めているところ。
しかし、ホルンセクションからはちょっと浮いているのは否めません。

面白いエピソードをひとつ。 夕方にホルンの部屋でレッスンが終わってその夜のオペラをピットで見る為待っていたところ彼が本番の為に登場!
挨拶をした後おもむろに服を脱ぎ出し着替えるのかと思ったらバスタオルを持って何処かに消えた。
数分後タオルを腰に巻いて再び登場!
そして着替えながらかれのレコード(その時はまだヴィーンはレコードが全盛)をしきりに私に奨めるので私が見ていると他のホルンメンバーもすでに揃っていて、彼等が やめとけ!返せ!返せ!と目が語っているのです。
もうこれは持ってるので、、、とか言って返すと あっそう、、、。
あとで聞いたところいつも用意していて誰にでも押し売りをするのだそうです。
それと彼はいつもオパーのシャワーを利用し家では水がもったいないので絶対に入らないのだそうで、ホルン部屋の暖房の上によく掛かっていたタオルは彼の物だったことが判明しました。



ローラント・ベルガー(Roland Berger)

ローラント・ベルガー氏の第一回目。
彼の生音に最初に触れたのは86年の引越し公演でのトリスタンとイゾルデ。
第一幕は3番をお吹きになっておりましたが休憩後の第二幕(もしかしたら三幕?)からなんと!1番の席におすわりなったのです。
それまではグゥイネス・ジョーンズの声にただ圧倒されていたオケが息を吹き返したように鳴りまくったのは信じられないことでした。
聖地でもワーグナーなどの長いオペラは幕でセットが変わりますが、3番から1番へのセット変えは普通あり得ないので特別措置だったのでしょう。
オーケストラにおけるホルンの重要性を肌で感じた至福の時でした。

そして初めて彼と会ったのは87年のオパーのホルン小部屋。
最初の印象はとにかく髪型と髭をきれいに刈り込んだ紳士!でした。
服装も見るからにセンスの良いものを着ていて、その当時のベストドレッサーでしたね。
その時はすでに3番オンリーになっていた頃でしたのでよくレッスンの後にホルン小部屋で会いましたが、いつも紳士で接してくださいました。(うちの師匠と同じセットで仕事をしていたと言う事)
しかし一端ホルンを持つと一遍して厳しい表情になるのでびっくりしました。
あれだけのホルンを吹いていたので当然かな、、、とは思いますが、、、。

そこで有名なお話を一つ。 
今は亡きバーンスタインがヴィーンに来た頃の事当初オケの中でも好き嫌いがはっきり別れたこの指揮者が振るとベルガー氏が顔を真っ赤にして何か怒鳴っているんだそうです R・シュトラウスはこんなんじゃない!とか言って怒ってるのがいつもの事になってオケの連中は やってるやってる ってな感じ。
しかし練習が終わってムジークフェラインを出ると、スクーターに乗ったノーヘルのベルガーの後ろに座るマエストロ!
二人で イェーイ!と叫びながらヴィーンの街に消えていく姿を見て同僚たちはただただ??????
天才のみが天才を知る と言う事なんでしょうか。

------------------------------

ベルガー編の第2弾。
常に紳士な彼は見るからに恐そうな目をしておりますが、普段はとても優しい人物でありました。
あの強面は確かに近寄り難い雰囲気がありますが、日本でも同じ感じの人物に師事した私は、培った経験をもとに積極的に天上の人に近づきました。

あれはオケピットでの授業の後でした。 オペラ公演が終わると指揮者に一応立たされてオケはお開きにになります。
(登場する指揮者の99%はひどい指揮者だ!と認識しているホルン会は指揮者が舞台に登場する前にトンズラする場合がほとんど、、、。)
その時もトンズラ組の先頭をギュンターが、その後ろを彼が20m遅れて追走!
私は先頭から遅れる事5m。
ヨーロッパではドアを開けて通る時後ろに人がいたら男女の違いなくドアを開けて待つという美しい習慣がありまして、その時も15m後ろを歩く彼を私がその習慣に則りドアを開けて待っておりました。
そしてしばらくして待っている私に気が付いた彼は競馬馬のような凄いスピードとあの強面に一段と力が入った凄い形相で突進して来るではありませんか!
そして私に近づくとピタッと止まってありがとう!本当にありがとう!心より感謝します!と満面の笑みで言ってくれまして、あまりの感謝のお言葉百連発に先を歩いていた師匠も驚きのあまり振り返ってニコニコ。
今でも忘れられない一場面です。

------------------------------

さーて、神様ベルガーの最終回。
ヴィーンでもやはり特別の存在だったベルガー氏。
一度レッスンの部屋を覗いたことがありまして、恐る恐るベルガー教授の部屋のドアを空けたらその真正面になんと!凄くでっかいフライベルク前教授の写真が額に入ってこちらを睨んでおりました。
縦1m、横80cmぐらいのものでホントに睨んでるのです。
その上、ベルガー氏の眼光が鋭くて二人に睨まれている様でホント緊張したの覚えています。

時は変わって、、、 私のレッスンが終わりシュターツオパーの食堂で師匠と同僚達と一杯飲んでいた時のこと。
本番前に早めに来たベルガー氏が同席しました。
いろいろな話をしているうち私が指圧(マッサージ)のスペシャリスト!と言う話になり手のつぼとかを説明していると真剣な表情でベルガー氏が私に一言!
唇の回りのこり(疲れ)を取るにはどうしたらいい?と、すがる様に聞くのです。
確かにその頃は3番奏者で調子は今一つでしたので悩んでいたんだと思います。
数カ所つぼを示すと真面目にマッサージしていました。
本番中でも盛んに(本当に四六時中)抜差管を微調整する姿からちょっと神経質だなぁと思っていましたので悩みは相当深刻なんだろうなぁと感じました。
まぁ確かに全盛期の彼は恐いもの無し!だったでしょうからストレスが溜まるのも仕方が無いなぁと思いました。
しかしその彼も定年前に早々と卒業してしまい残念でなりません。
100年に一人の天才でしたから、、、。



フランツ・ゼルナー(Franz Soellner)

彼はずーっと3番奏者として演奏していました。
私が知っているのはその頃です。
彼はとても真面目でいつも早くオパーに来てさらってました。
普段何をさらうのですか?の質問に
アルペジオだけ!と即答。
酒を一緒に飲むと私の呼び名とアトリエ・ハーローの木村さんの呼び名が同じで困るんだと言ってました。
彼はリンツのブルックナー交響楽団からの移籍ですが、ヴィーン入団前は7年間もエキストラでオパーに出ていたんだそうです。
ですからずーっと中途半端でつらく長い7年間だったそうです。



フォルカー・アルトマン(Volker Altmann)

彼の第一印象は頭脳明晰、理論派。そしてある一面からは、冷たい。
同じホルン会のベルガー氏と同様に兄が同じオケでティンパニー奏者。
彼はオペラ公演数時間前から来て入念にウォーミングアップをやっていました。
個人的にはあまり深く話をした事がありませんが(あまり酒を飲まない!)同僚と話している感じがとにかく 切れる! と言う印象。
ある日彼が師匠に一生懸命何かを説明していて、何の事かと聞いていると今日の本番でダブルホルンを使いたい!とのことだった。
木管アンサンブルでは使っているのは知っていたので基本的には驚きませんでしたが、その真剣さに事の重大さを感じました。
話を聞いた師匠は了承し本番を迎えました。
使用した楽器はシルバーのオットー。
ヴィーナホルン3本の中、2ndを彼が一人でダブルホルンで演奏しました。
曲目は忘れましたが無事に公演が終わった記憶があります。
しかし、その一回だけでその後はそう言う冒険は無かったのでやはりヴィーナホルンに軍配が上がったと言う事でしょうか、、。
それと彼の印象としては演奏中に行う右手の魔術!
いろんなプレーヤーを後ろから見ましたが、あんなに繁茂に動かして音程を調節している人は世界広しと言えども彼一人!
大袈裟でなく右手がじっとしている事が無い程動いてる。
あれはぶったまげましたねぇ!
しかし凄い勉強になったことは事実でして私も実践させて頂いてます。

冷たい と言う印象について、、、。 ヴィーン人はNett(親切な暖かい)と言われそういう印象がありますが、彼から受ける印象はドイツ人から受けるそれと似ていて同僚ともある一線を引いている感じがしました。(ドイツ出身ということも聞いたことがありますが確かではありません)←※フォルカー注:ドイツのイエナ出身ですので、間違いなく(元?)ドイツ人であらせられます。
ヴィーン市立音楽院で彼についていた弟子もそんな事を言っていました。
しかし、何か質問したりすると真剣に答えてくれたことも思い出します。
とても理路整然と答えてくれたので 切れる 印象から阿呆な私はそう感じたのだと思います。
まあホルン会の中で頭脳で音楽を演奏する最右翼でしょう。(いい意味で!)


先頭に戻る