Judea’s Kiss


Judea’s Kiss −第7話−
◆1◆

――コポッ、コポポポッ

カップに注がれる漆黒の液体が、不平を漏らすように音を立てる。
それはソーサーに載せられることもなく、カウンターに差し出された。

「相も変わらずブラックか。変わらないな、お前は」
「嗜好品くらい好きなようにさせてもらうさ。浮世は不自由のかたまりなんだからな」

厭世家の様な皮肉めいた返事も、この2人の会話では当たり前になっているのか、
穏やかな笑みと共に、マスターは軽く受け流す。
ふと、何かを思いだしたように、ガラス越しに澄み渡る晴れた空を見上げながら言った。

「もう……3年になるのか。丁度このくらいの季節だったよな」

どんなに追いかけても、決して手の届かない蜃気楼に想いを馳せる。
憧憬と諦観を同時に抱いている様な、そんな複雑な表情を杏一と宮森は共に浮かべた。
それきりしばらくの間、2人の間には沈黙が訪れる。
だが、その静寂は決して気まずいものでも、居心地の悪いものではなく、
まるで陽だまりみたいに、店の中を優しく包んでいた。

「……ああ、正直言って、昨晩は肝を冷やしたよ。
 しかも病院まで、母親の時と同じだったからな。
 ……ったく、あのバカ息子は」

杏一は、灰皿を手元に引き寄せ、煙草をくわえると、
苦笑いしながら、再び会話の口火を切った。

「そうか? いい男になってきたじゃないか、桐弥くんも」
「まぁだまだ。
 俺レベルの男になるには、あと200年は必要だな、あのガキは」
「……200年って、お前な。
 40男が、息子に対して変な対抗心燃やすなよ。
 これじゃ桐弥くんの方が、よっぽど大人びてるぞ」

宮森の何気ない言葉に、最前まで窓の外をボンヤリと見やって、冗談混じりに話していた杏一が、
カップを置くと、真剣な表情になって向き直った。
常に飄々としたこの男にしては珍しく、父親らしい相貌をして話を始める。

「……大人びてる、か。
 そこなんだよ、アイツの問題は。
 蓮(れん)が逝った後、いっとき荒れたけど、
 それが落ち着いてから、妙に思えるくらい、急に大人びたカンジがしてなぁ。
 そこが気に掛かるんだよ。
 大して不満も漏らさないし、家事もキチンとこなす。
 アイツ、未だに母親ってものに対して、負い目抱えてるんじゃねぇかなぁ。
 本当にこころが休まったコトが無いんじゃねーの、って気がするんだ。
 逆説的な言い方だが、俺にとっては蓮が居たからな。
 確かに蓮を失ったことは哀しいけど、一緒に居れたことそのものが、
 俺の救いになってるのも確かだ。
 ……桐弥にもそーゆー存在がいればなぁ」

それまで口を差し挟むこともなく、静かに旧友の独白を聴いていた宮森は、
空になったカップに、再び熱いコーヒーを注ぎながら声を掛けた。

「それなら、心配は要らないんじゃないか?」
「ん? どういう意味だ?」
「さっき、お前が話しただろう? 病院の前で逢った娘のことだよ。
 まぁ、それ以上は口を差し挟むだけ野暮ってもんだ。
 何にせよ、もうしばらく時間が経ってみないとわからないことだがね」

その言葉に、不思議と納得した面持ちになると、
杏一は再度満たされたカップから、熱いコーヒーを啜りはじめた。

・
・
・

――ドヒュゥゥッ

安堵の吐息の様な排気音と共に、店の前に白いバイクが停まる。
タンデムシートの上に、段ボールの箱がくくりつけられて。
二の腕の辺りに目の覚めるほど鮮やかな黄色いラインの入った、
黒いレザーブルゾンを着た男がヘルメットを脱ぐ。
ヘルメットを脱いだ拍子に乱れた髪を、軽く撫でつけると、
シートに載せていた荷物を小脇に抱えて店内に入ってきた。

「あ。マスター、おはようさんです。
 濃い目のコーヒー貰えます? なにせ、眠くって」

ヘルメットとボール箱をカウンターの上に置くが早いか、
そのまま倒れるように椅子に腰掛けた。

「晴一くん、モーニングのトーストはつけるかい?」

オーダーの準備を始めながら、そう尋ねると、

「頼んますー」

間延びした返事がマスターの耳に届いた。
会話が一段落付いたと見るや、
杏一は、カウンターに突っ伏している晴一に向かって、深々と真摯に頭を下げた。

「晴一くん、昨晩はウチの馬鹿が面倒掛けちまったな。ありがとう。礼を言わせて貰うよ」
「やめてくださいよ。大した事はしてないですから。
 それに年上の人に頭下げられるなんて、どーしていーかわかんないっスから」

晴一は照れ臭そうに、パタパタと手を振る。
その仕草にマスターと杏一は揃って口許を緩ませた。

「はい、お待ちどうさま」

声と共に真っ白い皿と、湯気をたてているカップが並べられる。
晴一は、すぐさま目の前の分厚いトーストに、ペタペタとパターを塗りつけ、囓りはじめた。

「それにしても……
 随分古いバイクだな。
 晴一くんが生まれてない頃に出たモデルじゃないか? CB900Fなんて」

カップを手にしたまま、窓の外のバイクを見ていた杏一が、
ふと、そんなコトを口にする。
その隣で、モーニングのトーストを頬張っていた晴一も、
カウンターから振り返って、窓の外のCBを眺める。

「杏一、お前にとっては懐かしいだろう?
 あのCB−Fってバイクは」

背後から飛んできた宮森の声に、首だけを巡らせて答える。

「んー、まぁな。
 俺も、ちょうど今の晴一くんくらいの時分に乗ってたしなぁ。
 750の方だけどな、俺が乗ってたのは」 
「じゃあ、マスターと出会ったのって、そのくらいの時期なんですか?」

ふと感じた疑問を、晴一は素直に口に出してみる。
杏一とマスターは、その質問にニヤリと顔を見合わせて、

「そうだったら、節度を持ったつきあいが出来ていたんだろうけどねぇ。
 残念ながら、物心付くか付かないかの頃からの腐れ縁だよ」
「随分と含みのある言い方だな。
 言いたいことがあるならハッキリ言えよ、宮森」

2人はふざけあう、と言った形容がピタリな感じで晴一の質問に応じた。

「ところで、その荷物は何だい?」

カウンターをダスターで拭きながら、マスターが尋ねる。

「あ、コレっスか。ブロス用のピストンですよ。
 前々から知り合いに頼んであったんですけどね、ようやく手に入ったもんで」
「じゃあ、あのバイク直すのかい?」

先刻、杏一が乗ってきたブロスの状態を眼にした宮森は、
少し驚いた様子で、そんなことを聴いてきた。

「その決断は、オーナーの役目ですよ。
 俺は単に選択肢を増やしてやるだけです」

ポンポンと、ボール箱を軽く叩いて答える晴一。
その脇で、新たに箱から煙草を取り出し、指先で弄んでいた杏一が、
紙巻きを唇に挟み込み、火を点けると、軽い調子で述べはじめた。

「そりゃそーだな。これで降りたって構わないんだしな。
 ……別に世の中バイクに乗ることが全てじゃあるまいし。
 ちょっと見回せば、世の中に楽しいことは他に幾らでもある。
 けど、若い頃ってのは、大抵の人間が周りが見えなくなるもんだよな。
 1つの価値観に拘ると言うか、ひどく狭量な部分が大抵あるもんなんだが。
 まぁ、それこそが“若さ”ってモノなのかもしれないけど。
 ……アイツは妙にその辺りが俯瞰してる、って言えばいいのか?
 周りから入ってくる事象に対して柔軟なんだよな。
 とはいえ、アイツは多分降りるなんて言い出さないだろうけどな」
「俺もそう思いますよ」

その言葉のやりとりに、
同じ思いだったのだろうその言葉に、皆がうんうんと頷く。

「蛙の子は蛙、ってコトだ」

杏一は自分の言ったそのセリフに、苦笑いを浮かべると、
底に残っていたコーヒーを一息に呷って、
椅子に引っかけておいた赤いブルゾンに袖を通して立ち上がった。

「さて、俺はそろそろ会社に向かうか」
「会社勤めとは思えないなぁ、お前の仕事ぶりは」
「いいんだよ。俺の仕事なんて納期に間に合えばOKなんだから」

宮森の揶揄を、気にした様子もなく杏一は、
くわえ煙草のまま、大きく一つ伸びをすると、
札を一枚財布から取り出し、カウンターの上に置いて出ていった。


◆2◆

大貴は、机の脇に据え付けられたフックから、昼飯の入ったビニール袋を取り上げ、
しかし未だ眠気が覚めやらないらしく、どこかおぼつかない足取りで那緒の席までやって来た。

「けーっきょく、午前中いっぱい起きなかったんだから。
 中間テスト直前なのにだいじょぶなの?」

そんな大貴に、那緒が頬を膨らませて諫める。
寄せ合った机の上に、ランチボックスを広げようとしていた紗耶は、
そんな2人を微笑ましげに見ていた。
視線に気付いた那緒は、恥ずかしそうに、てへへと笑って誤魔化すと、
机の中から、1冊のノートを取りだし、紗耶に手渡した。

「あ、紗耶。ノートありがとね。助かったよ」
「うまく会話の矛先変えたなぁ」

午前の授業が終わる前から、教室を抜け出して購買部に行っていた桂が、
いつの間に戻っていたのか、絶妙のタイミングで会話に入り込んできた。

「むぅっ、神村さん余計なこと言わないでよぉ」

その言葉に那緒は、ちょっと困った顔をして、茶々を入れる桂に抗議した。
平和な日常。
だが、いつもならそこにいるはずの人間が1人欠けていた。
その会話の輪から離れた自分の席で、授業中から気怠げな愁いを帯びた表情で、
窓の外に顔を向けていた桐弥は、静かに立ち上がり、教室の出口へ向かった。

「……桐弥、どこ行くの?」

こちらに一言も発することなく、扉へと向かう桐弥に、
大貴は、おずおずと声を掛けた。

「……ん。まだ頭ボーっとしてっから風にでも当たってくる」
「桐弥……っ!」
「どうしたんだよ、大貴? そんな泣きそうな顔して?」

振り返って返事をする桐弥に、
迷子の様な、心細げな縋り付く視線を向ける大貴。
大貴のその哀しげな表情に、教室に入ってきたクラスメートの何人かが、
何事か、と訝しむような視線を向けたものの、
そのまま昼休みの喧噪に戻っていった。
桐弥も、大貴のその様子にしばし戸惑った様子だったが、心配要らないとでも言うように、
大貴の肩に手を乗せて柔らかく笑いかけると、それきり振り返ることもなく教室を出ていった。
心配そうにその様子を見ていた紗耶は、しばらく所在なげにモジモジとしていたが、
意を決して椅子から立ち上がると、立ち尽くしていた大貴の横を通り過ぎて、桐弥の後を追った。
それを見ると、ほっとしたように肩の力を抜いて、大貴は那緒達の居る場所へ戻った。

「ふーぅっ、桐弥も愛されてるよなぁ。見てて羨ましくなるよ」
「あれぇ? 神村さんだって綺麗なお姉様がいるじゃない」

走り去る紗耶の後ろ姿を見やって、桂がポツリと呟く。
その呟きを聞き逃さずに、間髪入れず鋭くツッコむ那緒に、
桂はわたわたと狼狽えて、
焦りながら人差し指を唇の前に立てて“黙って”と、ジェスチャーを送る。

「神村さんのお姉さん、確かに凄く綺麗だよね。それに凄く格好いいし」

今までの話を聴いていたのか、いないのか、
紙パックのストローから、オレンジ色の液体を吸い上げながら、
大貴の顔からは先程の不安げな表情は消え、
いつも通りの、のほほんとした口調で、少し会話の意図からズレた発言をした。

「えっ? 神村さんってお姉さんいたの? ……って、そうじゃないのよ、大貴くん。
 ……あ・と・ね。こんなにかわいい彼女の前で、他の女の人を褒めるなんて
 ちょーっと、ひどいんじゃないかなぁ?」

殊更優しげになった那緒の笑みに、底知れない怖さを感じた大貴。
あはは、と乾いた笑いを浮かべる大貴の表情が、ちょっとだけ引きつったように見えた。

・
・
・

屋上へと向かうドアの前にある小さな踊り場、
そこは今頃の時間帯は、窓から光が差し込んで埃すらもキラキラと輝いて見えた。
冷たい金属製のドアの中央には、『立入禁止』と書かれた紙が貼られ、
その文句の通り、扉にはしっかりと鍵が掛かっている。
桐弥はそれを横目で見て、しかし、一向に意に介した様子もなく、
右側に填め込まれたガラス窓を開け、サッシに手をかけて躰を持ち上げると、
足先から飛び出すように窓の外に身を躍らせた。

――そこは、鳩尾(みぞおち)ほどの高さの鉄柵に囲まれた、
  1人で居るには、寂しさすら感じるほどの茫漠たる領域。

指先についた埃を、パンパンと手を打ち合わせて払い落とすと、
入口代わりの窓から2、3歩ほど離れた場所に腰を下ろして、壁に背を預ける。
制服のポケットから、来る途中で自販機で買った缶コーヒーを地面に置き、
そして、内ポケットから煙草を取り出すと、火を点けるといつもよりも深く吸い込んだ。
コンクリートに腰を下ろし空を仰ぐと、心に溜まった澱を吹き飛ばす様に、煙を吐き出す。
たゆたう煙が風に散らされていくのを、どこか空虚な眼差しで見つめていたが、
突然何かに耐えるように力を入れ、その身を強張らせた。
幾ばくかの時が流れ、ようやく身体の力を抜いて、
傍らに置いてあった缶コーヒーをとろうと上体をひねると、
そこには、窓からモゾモゾと必死に這い出てこようとする紗耶が居た。

「……こーゆー場合、なんて言ったらいいのかな?」

信じられないものを見たかのように、
しばし呆然としていた桐弥から、そんな間の抜けた言葉が漏れる。
それに対して紗耶は、ぎこちなく笑うのが精一杯だった。

・
・
・

桐弥に手助けをしてもらって、無事に降り立った紗耶が、
ここに来た経緯を話すと、

「平河さんには気苦労ばっかりかけちゃってるなぁ」

普段と変わることのない調子で、桐弥は返事をした。 
だが、桐弥を前々から見つめていた紗耶には、
喋り方、声のトーン、立ち居振る舞い、
いつも通りに見える桐弥に、漠然とした違和感を感じた。

「……どうしたの?
 今の桐弥くん、なんだか少し……」

そこまで言って口ごもる。
――聴いてしまっていいのか? そんな思いに駆られて。
そう囁きかけてくる不安を振り払うように、真っ直ぐに桐弥の瞳を見つめて、

「ムリしてる……みたいに見えるよ……」

ためらいがちに再び開かれた唇からは、
静かだが、反論を許さない意志を伴って紗耶はそう口にした。
桐弥は眼を閉じて、軽く首を振ると、

「……ムリしてる、か。
 かなわないな。お見通しかぁ。
 確かにそうかもしれない。
 平河さんには心配かけっぱなしだから、これ以上心配かけたくなくってさ」

そう言い終えると、煙草を地面に擦り付けて揉み消し、何を思っているのか、
遠くを見つめたまま動かない桐弥の元へ、
先程までの心細そうな表情が嘘の様に、決然と近づき膝を屈めた。
腰を下ろしたまま、動くことのない桐弥を包み込むように、
桐弥の首の後ろで手を組み合わせると、胸元にキュっと頭を掻き抱く。
うららかな日差しの中、校内のそこかしこから届く喧噪が、やけに遠くに聞こえる。
1つになった影は、まるで世界から隔絶されたかの様に動かなかった。

「さっきの言葉も嘘じゃないんだ、心配かけたくないってのも確かに思ってる。
 ……けど、本音は自分の弱いトコ見せたくなかったんだ。
 抑えきれないくらい震えてたんだよ、俺」

紗耶の温もりを感じながら、今まで見せることの無かった自分の中の脆弱な部分を、
まるで血を吐いているかの如く、苦々しげな口調で言い放つ桐弥に、

「……あのね、桐弥くん。
 昨晩何があったのか、わたしは詳しくはわからないけど、
 わたし、もっともっと桐弥くんのそばにいたいよ。
 桐弥くん、自分のことは名前で呼んで、って言ってくれたよね。
 そのとき、ほんの少しだけど、近くなれた気がした。
 それが、わたし凄く嬉しかった。支えになった。
 そんな気持ちをくれた桐弥くんを、出来ることならわたしも支えてあげたい 
 ……だから、桐弥くんの強いところ、弱いところ、もっと見せて欲しい。
 これって、わたしの我が儘なのかな?」

紗耶は、抱え込んだ桐弥の頭を、飽くことなく優しく撫で続け、
潤んだ瞳で、偽らざる心の内を語りかける。
桐弥は、最前までどうしようもなく荒んで、刺々しさに支配されていた精神が、
例えようもないほどの、穏やかで安らいだ気持ちになっていくのを感じた。
 
「ありがとう。……紗耶」

名前を呼んで、髪の上を滑らせていた紗耶の手を軽く握ると、
桐弥はゆっくりと立ち上がり、紗耶に向かって、慈しむような微笑みを浮かべた。
心の内を語っている内に感極まったのか、いつのまにかとめどなく涙を流していた紗耶も、
桐弥のその優しげな笑顔を見ると、泣き笑いではあるけれど、とびっきりの笑顔を見せた。

・
・
・

先に校舎内に入った桐弥が、窓を抜けようとしている紗耶に手を貸す。
入るときと同様に、上体から出てこようとするので、
桐弥は、落ちそうになる紗耶の躰を、腋下に手を差しいれて手伝う。
紗耶は恥ずかしそうに、微かに頬を紅潮させながら重心を預けた。
その脚を静かに床に降ろすと、2人は共に、制服に付いた埃を軽く払って教室へ向かった。

「……だけど」

3階から2階に降りている途中に、俯き加減に深刻そうに喋りだす。
桐弥のその沈鬱そうな雰囲気に、またも紗耶はピクンと身を震わせる。

「紗耶ってけっこー大胆だよね。
 ……俺は嬉しかったけどさ」

予想していた言葉とは、似ても似つかない明るい言葉と共に、
一転して笑い顔を見せて振り返った桐弥に、
顔を真っ赤にしながら、紗耶も口許をほころばせた。


◆3◆

「班毎にまとまって、自由行動のスケジュールの話し合いしろー。
 今日中に提出だからなー」

担任は、簡単すぎると言えば簡単すぎる指示を与えると、
出席簿を手に、教室を出ていった。

「生徒の自主性を重んじる、って言えば聞こえはいいけど。
 つまりはテキトーにやれってコトか?」

桂はそうボヤきながら、背もたれによりかかって頭の後ろで手を組み、
教師の居なくなった、開放感の満ちる教室を見回す。
どことなく遠慮している低いさざめきもあれば、不躾とも言える高いざわめきも響く。
教室全体が、約2週間後に迫る高校生活最大のイベントに気分を高めている様に見えた。

「神村さんったら、そんなにヒネクレた言い方しなくてもいいじゃない。
 せっかくの大イベントなんだもん、楽しまなくっちゃっ」

修学旅行のしおり、ガイドブック、手帳に筆記用具。
机の天板が見えなくなるほどたくさんの資料を広げ、
旅行先の観光名所や見所を、大貴と一緒に調べていた那緒が言うと、

「そーだよねぇ、せっかく気心の知れたメンバーなんだから。
 これで中間試験なんてものが無ければ、すっごく気が楽なんだけど」

追従するように大貴が、そんな発言をして、
試験を思い出すと、ふぅっ、と溜息をついた。

「ま、不満があるワケじゃないんだけどさぁ。
 2度目だからさ、出来ることなら違う場所行きたかったなー」
「桂、オマエ、2度目とか言うなよ。みんながリアクションに困るだろーが」

尚もボヤき続ける桂を、桐弥は軽くたしなめる。
その後は、相談とは名ばかりの雑談が、担任が戻ってくるまで切れ間無く続いていった。

「自由行動どうする? いっそのコト、向こうでレンタカーでも借りるか?
 その方が便利だし、色々と見て回れるだろ。
 さすがにコレは馬鹿正直に予定表に書いて提出、ってワケにはいかないけど」
「いくら『自由行動』って言っても、そりゃマズいだろ」
「ねぇ、紗耶。
 このオルゴール館、見に行ってみようよ」
「うん、実はわたしも行ってみたいって思ってたんだ」 
「けど、多分みんなが思ってるよりも、この時期の北海道って寒いぜー。
 俺、去年小樽の運河沿い見てた時、雪舞ってたもんなぁ」
「えーっ、ホントですかぁ?
 どーしよぉ、コートとか持っていかなくっちゃいけないのかなぁ。
 荷物がまた多くなるなぁ」

・
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・

予定表に記入すべき事柄だけは、どうにか決定出来たものの、
細かい部分は時間が足りなくて――雑談に時間を取られすぎて――碌に話せなかったので、
放課後に『フォレスト』で相談の続きをする事になった。


◆4◆

「桐弥ぁ、じゃあ、先に行ってるからね」
「んー、了解」

そう言って教室を出ていく大貴に、箒を片手に返事をすると、
大貴は、廊下で待っているみんなの所へ向かっていった。
そちらに眼をやると、同じようにこっちを見ていた紗耶と眼が合った。
少し照れ臭そうに手を振る紗耶に、手を振り返すと、
はにかんだ笑顔を見せて、みんなの元へ戻った。
桐弥は、皆が昇降口に向かうのを見届け、一刻も早く合流するために、
これまでにないほど、掃除に積極的に取り組みはじめた。

・
・
・

昇降口を出て、校門に向かっていく4人に、
顔ぶれも装いも様々な、知った顔から声をかけられる。
挨拶を交わしながら校門を出ると、
学校の目の前の道路の向かい側、校門の真っ正面に赤紫色のシビッククーペが停まっていた。

――へぇ、逆輸入のシビックか。
  17inchのホイールかませて、随分ローダウンしてるなぁ。

立ち止まってシビックを見つめたまま、そんな感想を考えていた桂に、大貴が声を掛ける。

「どぅしたの、神村さん?」
「ん? ソコに停まってるクルマが、逆輸入仕様のヤツなんだけどな。
 随分とスカしたイジり方してると思ってさ。
 あのメッキホイールなんて、すこぶる高いぜぇ、羨ましいこった」
「ふーん、そうなんだ」

いつの間にやら、大貴も桂の脇に立って、興味の無さそうな返事とは裏腹に、
まるで食い入るように、そのクルマに向かって視線を注いでいた。

「ほらっ、2人とも何してるの?
 グズグズしてないで早く行こうよっ」

動きを止めた大貴と桂の様子に痺れをきらせたのか、
小走りに戻ってきた那緒に、制服の裾を掴まれ、
大貴と桂は半ば引きずられるかたちで、『フォレスト』への道程を辿った。

・
・
・

学校の目の前に堂々と鎮座している、葡萄の様な色のシビックを、
桐弥が見るともなしに、チラリと視線を送った時、あまり見たくない顔が見えた。
途端に、身体中の隅々まで血が流れる様子が解る。
――奇妙なほど冷え冷えとした感覚で。
怯えが無くなったわけではないが、この感覚はそれとは違う。
強いて言うならば、冷徹な殺意とでも言うべきものを、戸惑うことなく受け入れている、
いや、久しく忘れていたものが戻ってきたことに、桐弥は気が付いた。

「昨日はバイクで、今日はクルマか。
 明るいところで会うのは初めてだよな。
 昨晩は随分とイカレた真似してくれたモンだよな。
 一体どういうつもりだよ?」

桐弥は、クルマから降り立つ、眼を惹く金髪の姿に声を掛けると、
戸村は、かけていたサングラスを外し、首元に引っかけると、
何がそんなに可笑しいのか、しきりに笑いながら、
まるで、物わかりの悪い子供を諭すみたいに話し始めた。

「ク、ククッ、何故かって? 随分おかしなコトを訊くなぁ。
 訊いたところで、過去の出来事は変わり様がないし、意味もない。
 昔は違ったよね。
 眼を合わせるだけで、皮膚を剥がされて、肉を毟られて、
 精神まで削り落とされる、そんな気がするほど、アンタは鋭かったよ。
 ……まぁ、そんなコトはどーでもいいさ。人間は腐っていくモノだからね。
 それよりも、メッセージは読んで貰えたかな?」

話を聴きながら桐弥は、
戸村の眼が、まるで受信状況の定まらないラジオみたいに、
奇妙に澄んだ瞳と、淀んだ瞳がクルクルと交錯していることに気が付いた。

「昔? 悪いが、俺はそんな以前にアンタと会った憶えは無いがな。 
 それに、メッセージって、なんのコトだ?
 ……あと1つ。
 随分聞き捨てならないコト言ったな。
 “腐っていく”だと?」

感情というものが一切感じられない、怜悧な無表情をして淡々と言い放つ桐弥。
  
「そうさ、その凍り付くような瞳だよ。
 それでこそ……」
「行生、待たせたね。
 おや? そこに居るのは?」

唐突にハキハキとした聞き取りやすい声が、桐弥の背後から届いた。
その声の主に向かって、戸村は会釈をし、桐弥はそちらへ振り向いた。
そこにはキチンと制服を身に着け、礼儀の正しい印象を与える男が立っていた。
2人の視線を別段気にした風もなく、取手はにこやかに近付くと、
気さくに桐弥の肩を叩いて尋ねた。

「やぁ、葉月くん。お加減はもうよろしいんですか?
 ……行生? 失礼な真似をしてないでしょうね?」

一方戸村はニヤニヤしたまま、取手の問いかけに、否定の意を込めて手を振る。
一瞥を与えた後、取手は再度、桐弥の方に向き直った。

「わざわざお花までいただいて、感謝の言葉もないですよ。取手センパイ。
 ……なんのつもりだか知らないですけどね」

言葉遣いだけはあくまで慇懃に、
しかし、無表情だった口許にゾっとするような酷薄な笑みを張りつけている。
そんな桐弥とは対照的に、
取手は十人の内、九人までは間違いなく警戒心を解くような、
好もしい笑顔を崩さずに言葉を紡ぎ出す。

「他意は無い……と言ったら嘘になりますかね?
 実はね、葉月くん。
 あなたとお友達になりたいと思いましてね」

桐弥は、取手のその笑顔と口調に僅かな既視感を憶えたが、
それを表に出すことは無く、
親指を立てて、戸村を指し示しながら返事をした。

「はぁっ?
 けど、俺が怪我した原因は、既に御存知の筈でしょう?
 センパイの横に立ってる、そのオトモダチのお陰ですよ」
「ふふふ、やっぱり君は興味深い人ですね。
 その人を喰った様な性格と、物怖じしない度胸。
 そういう人とお近づきになりたいんですよ」

桐弥の返答が余程気に入ったのか、ひどく楽しそうな取手。
その提案の真意が図りかねながらも、
桐弥は、精神のどこかで警鐘が鳴り響いているのを感じた。

「なるほどな。
 ……桂がセンパイを毛嫌いしてる理由が、解りすぎるほど解ったよ。
 へりくだった物言いはしてるけど、
 相手より自分の方が高見に居る、って顔してるよアンタは」
「自分が、人から見てどう映っているかが解っただけでも大きな収穫です。
 歯に衣着せぬ率直な意見は、キチンと肝に銘じておきますよ」

あたかも良き理解者であるかの如く、大仰に頷く取手に、
戸村は、首に引っかけていたサングラスで再び眼を覆い隠すと、
クルマに乗り込みながら声を掛ける。

「悠さん、そろそろ行きましょう」
「そうだね、さっき言ったコト考えておいていただけると、ありがたいですね」

そう言い残して、取手はシビックの助手席のドアを開けると、シートに身を沈ませた。

「お大事に。葉月くん」

戸村は窓を降ろすと、ことさらゆっくりと白々しい言葉を放ち、
けたたましいエンジン音を轟かせて、クルマを発進させた。
段々と小さくなっていく取手達の乗るクルマを、
思考を一切読みとれない、醒めた視線で眺めていた桐弥は、
シビックが交差点を曲がって、その姿が見えなくなると、
ようやくきびすを返して、『フォレスト』に向かった。


◆5◆

――カランカラン

「ちわっス」
「お邪魔様でーす」
「こんにちわぁっ!」
「……こんにちわ」

ドアベルの音に続くように、
思い思いの挨拶を発しながら、ドアをくぐってくるいつもの面々。
その声に、新聞を広げていたマスターは顔をあげ、いつもと同じ穏やかな笑みで迎えた。

「いらっしゃい。……おや、桐弥くんは一緒じゃないのかい?」
「あー、アイツ掃除当番。もう少しすれば来ますよ」

那緒達がテーブルの上に、あれこれと資料を広げていると、
カウンター脇のガレージに通じるドアから晴一が姿を見せた。

「さーて、休憩、休憩っと。
 マスター、カフェオレね。ミルクたっぷりで。
 ……って」

テーブル席の面々に気が付くと、ニコニコしながら
場の空気を乱すこともなく、ごく自然に、話し合いをしている中に入り込んだ。

「修学旅行? 
 もぅそんな時期かぁ。んで、ドコ行くの?」
「北海道ですっ。すっごい楽しみなんですよ」
 
喜色満面に言う那緒。
晴一は、自分も同じ場所に行った筈なのに、興味深く話を聴いていた。

「……それにしても晴一さん、ガレージの方で何やってたんですか?」

桂は、背もたれにかけた制服の上着から、煙草とマッチを取り出しながら晴一に聴いた。

「ん? 桐弥のバイクをな……」

・
・
・

『フォレスト』に入ってきた桐弥は、怪訝そうに店内を見回す。

「……あれ? おっかしいな。
 マスター、みんなが来てるはずなんだけど、何処に行ったの?」
「ああ、晴一くんと一緒にガレージの方に居るよ」

マスターの返事を聞くと、
背負っていた鞄を下ろして、桐弥はガレージに続く扉を開いた。
そこには、傷だらけのブロスを取り囲むように、
皆が押し黙って見つめていた。
その中で桂は、いち早く桐弥の姿に気が付き、

「ほらほら、俺達は修学旅行の打ち合わせに来たんだろ?
 さぁ、戻って話し合いの続き続き」

そう言って、固まったように動かない残りの連中の背を押すと、ドアをくぐっていった。
ガレージに残った桐弥と晴一。
ある程度の覚悟はしていたものの、変わり果てたマシンを実際に目の当たりにすると、
言い様のない悔恨、そしてなにより、絶望的な無力感に襲われる。
その様子に気付いていないのか、それとも、あえて気付かぬ振りをしているのか、
晴一は桐弥の方ではなく、ブロスに眼を向けたまま、冷静に現状の説明を始めた。

「昼前ぐらいから、一通りチェックしてたんだけどな。
 細かい傷や、パーツはともかくとして、フロントの足廻りが駄目になってる。
 ホイールは歪んでるし、フォークはひん曲がってる。
 ついでに言うなら、ブレーキ廻りもオシャカだ」
「…………そんなに酷いんですか」
「あぁ、よくこの状態で親父さんが病院から乗って来れたと思うぐらいにな」
「オヤジに会ったんですか?」

桐弥の問いかけに頷きだけを返して、晴一は言葉を続ける。

「俺は昨晩は押したようなモンだからな。エンジンもかけてなかったし。
 ……まったく大した腕だよ。桐弥、オマエの親父さんは」

そこまで言い終えると、
オイルとガソリンの匂いが立ちこめるコンクリート打ちの室内に、
張り付くように重苦しい沈黙が降り積もる。
打ち破ったのは、予想外の晴一の言葉だった。

「……で、どーする? ツブすか、それともオコすのか?
 決めるのは他の誰でもない。オマエだよ」

その言葉に、桐弥は眼を閉じると、考えを巡らせる。
数瞬の後、髪をかき上げ、瞼を開くと、

「やっぱさ、このまま負けっ放しじゃ収まりつかねぇよな。
 俺も…………コイツも」

そう言って桐弥は、ブロスのシートをポンと軽く叩いて答えた。
内心ではその答えを予想していたのだろう、
晴一は軽く肩をすくめて苦笑すると、

「やれやれ、やっぱりそうなるのか。ピストン持ってきて正解だったな」
「えっ!?」

更に桐弥を驚かせるセリフを口にした。

「丁度いいだろ。しばらくは動かせやしないんだし、
 どうせバラすんなら、この機会にエンジンに手ぇ入れるのも悪くないさ」
「けど、エンジンに手を入れるとなると、結構費用もかさむんじゃないんですか?」
「バーカ、高校生の懐具合なら、俺だってわかってるさ。
 ……とはいえ、俺だって慈善事業やってるんじゃないからな。
 そうだなぁ、10万持ってきな。
 そうすりゃ、大物パーツとエンジンは面倒みてやるから」
「10万ですか……
 それならなんとか工面できますけど。
 ホントにそれでいいんですか? 大分、晴一さんの方にアシが出ちゃうんじゃ……?」
「ガキがそんな事気にしてる暇があったら、いつまでもボサッとしてないで手伝えよっ。
 なんたって、オマエのバイクなんだからな」

そう言って、晴一は桐弥にスパナを放った。
桐弥はそれを掴み取って、制服の袖を捲り上げると、
どこか晴れ晴れとした表情で、今は動かない相棒の元へと近づいていった。


          ――It comes after Next Story...



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