縄文時代

さて、支部長による日本史講座もめでたく初回を迎えることと相成りました。とりあえず縄文時代からはじめたいと思います。
縄文時代は今から約1万年前〜2000年前までという、途方もないほど長い期間の時代です。私に言わせれば、こんなに長い期間を一時代にまとめる方が無茶なような気もしますが、こんなこと口が裂けても言えません。ええ、言いませんとも。

えー、みなさんもご存じのように、今から約1万年前に氷河時代は終わり、気温が上昇し、氷河が溶けて海面が上昇し、大陸と地続きだった日本もとうとう大陸とお別れする日がやってきました。ようやく今と同じような自然環境になったわけです。植物も針葉樹林から、くるみ・栗などの落陽広葉樹林へ、動物もマンモスなどの大型の動物から、猪・鹿などの中小動物へとかわっていきました。

狩猟・採集に日本の風土はとても適したと言え、特に東日本は広葉樹林が鬱蒼と生い茂り、熊などの比較的大型の動物にも恵まれ、西日本より多くの人口をかかえていたようです。
また自然環境の変化から、当然のように狩猟方法も変化し、動きの速い中小動物を仕留めるため、新たに弓矢が使われはじめたのもこの頃です。また石器も従来の打製石器に加え、新たに磨製石器が使われはじめました。

そして、この「縄文時代」という名前のもととなった土器が出現します。なぜ縄文土器かと言いますと、土器に縄を転がしてつけた圧痕があるからです。この土器の誕生により、人々は食料を貯蔵・調理できるようになり、食生活は飛躍的に向上しました。
ちなみに、縄文土器は世界で最も古い土器と言われています。縄文土器の詳しい説明はこちらへ

住居は竪穴住居で、一戸に数人から10人くらいが住んでいたようです。早期は2〜3戸で集落を形成していましたが、その後次第に数は増えています。集落は一般にわき水が近くにある場所に営まれ、中央の広場をかこむように、円形、または半円形に住居が配置されており、集落の形成に規則性があることがわかっています。
また、一部の地域でのみ取れる黒曜石サヌカイトなどがかなり広範囲に分布していることなどから、当時すでに遠方の集団との交易が行われていたことがうかがえます。

この時代の特徴として、次の弥生時代に見られるような貧富の差や階級の区別がない点があげられます。これは、住居の規模・構造にたいした違いがないことや、埋葬が共同墓地で行われ、副葬品も存在しないことからも分かります。人々が力を合わせて働き、収穫物をみんなで公平に分配する生活のなかで、貧富の差などは生まれないのは当然と言えば当然なんですが。

そして、この当時世界中で見られるように、日本でもアニミズムが存在し、人々は呪術によって災いから逃れようとしていたようです。これは女性をかたどった土偶や、手足を折り曲げて埋葬する屈葬が広く行われていたことからもうかがえます。おそらく死者が死後、死霊となってさまよわないよう、いましめをするためだったのでしょう。
また、この当時の風習として、上顎の両犬歯と、下顎の前歯2本を抜き取る抜歯があります。これは成人の証として、一種の通過儀礼として行われていたようです。


支部長のちょっとコラム

@気候の温暖化は厳密には縄文時代中期以降とみられ、そのころから土器の大型化がはじまっています。
Aこの当時の日本の顔かたちなどを見ると、現在の日本人とは少し違うようです。これは次の弥生時代の人と比べるとより分かりやすいのですが、どうも日本人は様々な民族と混血を繰り返して今の日本人になったようです。おそらく北方から、朝鮮・モンゴル等の影響を受け、南方からポリネシア系の影響を受けてきたのでしょう。まさに雑種といったところでしょうか。
語学的には、日本はアジア大陸北方のアルタイ語族に属するものの、音韻や語彙には南方系要素も多く、縄文時代には南方ポリネシア系の言語を使用していたとの説もあります。
ちなみにアルタイ語系というのは、主語+補語or目的語+動詞という語法のことで、日本語・朝鮮語・モンゴル語などがこれにあたります。世界で一般的なのは主語+動詞+補語or目的語という語法ですよね。アルタイ語系はけっこうマイナーなんです(^^;
B当時の生活や自然環境を復元する上で重要な資料を提供してくれる貝塚ですが、日本で貝塚の研究がされるようになったのは、明治十年(1877年)にアメリカ人モースが東京の大森貝塚を発掘調査してからなんですね。それまでは日本人は貝塚の重要性に気づかず、ただ放置していただけでした。うーん、モース様々ですね。ちなみにモースは考古学を教えに日本に来たわけではなく、動物学が専門だったんです。
C縄文といえば狩猟・採集、米作は次の弥生から、というイメージが強かったんですが、最近縄文晩期に部分的に米作が行われていたことが分かってきました。佐賀県唐津市の菜畑遺跡福岡県福岡市板付遺跡では水田や水路が発見されています。
さらに、長野県八ヶ岳山麓では縄文中期に、粟の栽培(焼畑農業)が行われていたとの説もあります。
@亀ヶ岡遺跡

A大森貝塚

B板付遺跡

C菜畑遺跡