かくし



アザーン戦記 



アレクラスト大陸の南西端には、アザーン諸島という島々がある。
近年クリスタルドゥーム復活の危機という世界規模の災厄に見舞われた。
だがそれもようやく終結し、同時にそれまでアザーンを苦しめていた
海賊も撲滅され、アザーンは急速に復興し始めていた。

 そのアザーン諸島にある一国、ベノールの王城にて、二人の男女が城下を眺めていた。
「町も、ずいぶん復興してきているな」
ドゥーム封印、海賊撲滅に尽力したアザーンの英雄というべき冒険者のうち、
唯一ベノールに宮廷魔術師として残ることを希望したエレアスが、王城から町の復興されるさまを見ていた。
隣国のザラスタ、アザニアからは一歩遅れた経済復興である。
半壊の憂き目にあった王城の建設を優先したために、その分王都の復興速度が割りを食ったのだ。
「本来であれば、もっと早い復興が目指せていたはずでした」
 エレアスの隣には、ベノールの王女であるリュシア・ベニアス二世が立っている。
ベノール宮廷魔術師であるエレアスの忠誠の対象であるのだが、エレアスにはそんなそぶりはまったくない。
対等の友人か、さもなくばただの年下の少女に対する扱いと変わるところがない。
「経済的な補助は先の戦で足を引っ張ったザラスタと、海賊に踊らされたアザニアに対価を払ってもらっています。
こちらとしてはなんら懐が痛まない。いいことではありませんか」
「私は民の生活のことを話しているのです! 
町の復興を遅らせて、民に何月も倉庫のような仮宿舎で暮らさせていて、貴方は恥じる所がないのですか?」
「上に立つものが自分の足元しか見ないような考え方ではいけませんよ。もっと長期的な視野に立たなくては」
「自分の足元の生活すら守れなくて、何が王族ですか!」
 リュシアがぴしゃりと言い放つと、それ以上エレアスは言い返さなかった。
言い返せないのではない。彼女を論破することに、もはやたいした価値を置いていないのだ。
彼女の許可を得なくとも、この国はもはやりっぱに動く。
………エレアスの意思によって。
「………近衛隊長のラヴェルを更迭なさったそうですね」
 話題を変えたのはリュシアのほうであった。
「いかにも」
「罪状は何です?」
「………もはや貴方に飾ってみても意味はないでしょう。
彼があくまでファリスの教えに従い王都に住むファラリス神官を成敗するのだと
言い放つものなので、仕方なく職を解き更迭しました」
「ファラリス信者を逮捕することに、何の罪がありますか!」
「彼らファラリス信者は先の海賊退治での功労者です。
功績あるものには報いる。それがこのベノールの新体制です」
「ラヴェルとて………力およびませんでしたが、懸命でした。それへの報いはどうなるのです?」
「度重なる無礼をも許し、命も奪いませんでした。これ以上何を望まれます?」
 エレアスの言葉にはまったく恥ずる所も、また偽るところもない。
本心からそう思っているのだ。海賊退治の功績をどうこう言ってはいるが、
結局のところ過去にどんな功績があるものでも、役に立つ者は取り立てて
役に立たない者は切り捨てるのだ。
「それで貴方は………そんなやり方で部下がついてくると思いますか? 国が成ると思いますか?」
 王女の言葉を、エレアスは不敵に笑って受け止めた。
「フフ。貴方の………いや、貴方たちの考え方では、世界中に住む一部の者しか部下にできませんよ。
貴方は正論を吐いているつもりかもしれないが、実の所私の考えの方が多くの者がついてくるのです。
貴方にも、いずれそれがわかります。いえ、わかっていただかねばならない」
 エレアスの自信の真意を、王女は正確には理解していなかった。
だが最近しばしば町の付近にすら出没するようになった妖魔、幽霊船、飛竜の存在と無関係ではないだろう。
「いずれ私も、用がなくなれば追放するのですか?」
「その点に関してはご安心を」
エレアスがあまりに早く答えを返したので、リュシアはむしろ驚いた。
自分の存在など、エレアスが自分と結婚して国王となり、リュシア自身が民から忘れ去られて
エレアスが国民からの絶対の支持を受けるまでのものだとばかり思っていたからだ。
だがエレアスの言葉は、リュシアをさらに驚愕させた。
「貴方にはベノールなんて小さな国だけではなく、もっと大きな国を統治していただく。
アザニア、ザラスタだけではない。このアザーン諸島全土に、アレクラスト大陸も…
……それまでには貴方も、多くの民を統べる者としての自覚をもっていただかねばならない。
小国の王女ではなく、比類ない大国の女帝として」
 リュシアもさすがに平静ではいられず、視線を城下の町からエレアス自身に向ける。
だが今の彼は、戦時中のときにつけていた仮面を常に着用しているため、表情がまったく見えない。
「な、何の話をしているのです!?」
「私は貴方にこんな小国ではなく、もっと大国を統治して欲しい。
そう言っただけです」
リェシアとて宮廷暮らししか知らない箱入り娘であるが、
学問一式は幼少のときから家庭教師に叩き込まれている。
だがその聡明な頭脳をフル回転させても、エレアスの真意はようとして読めなかった。
エレアス自身が大国を支配するのではなく、なぜわざわざ自分を介在させようとするのか。
非効率的だし、そもそも自分がエレアスのやり方に不満を抱いていることを、彼が知らないはずがない。
反乱の種を放置するようなものだ。
「なぜ、そんなことをするのです?」
 リェシアは理解できないことすべてを、短くその言葉をもって聞いた。
「わかりませんか?」
「わからないから聞いているのです!」
「………………」
エレアスは顔を向けたまま無言であった。
時々仮面の隙間から唇が動くのが見えるが、声にはならない。
「エレアス様。アードです。『ミラージュ』の方がお待ちですが」
扉の向うから、アード少年の声が聞こえた。エレアスが一介の冒険者として
アザーンにきた時から彼を慕い続けていた、ラーダ信者の少年である。
彼も今では宮廷付司祭という、15歳という年齢にはあまりに過分な職責を担っている。
「わかった。すぐいく。では王女、その話題は、いずれまた」
 エレアスは一礼すると、許しの出るのも待たず、その部屋を後にした。


窓もない円卓のみが置かれた殺風景な部屋は、王城建造にあたり
エレアスが新たにあつらえた特別室だ。
完全防音であり、透視、転移の魔法を防ぐ魔術が凝らされている。
部屋の中央にある巨大な円卓には、八つの席が用意されていた。
エレアスがその席の一つに座り、六つの席が埋まる。
エレアスの両隣の席は空席のままだ。
「全員そろったみたいね。
じゃあ、前置きなしでさっさと議題をはじめましょう。私、今忙しいのよ」
 エレアスが座るのとほぼ同時に話したのは、『黒博士』アゼイリア・クライシスである。
見た目はすでに乙女から女への脱皮を華麗に遂げた美女にしか見えないが、
彼女の頭脳には大陸にはドワーフ族にしかありえない機械技術の極意が膨大に収まっている。
そしてその頭は、同時に金銭感覚を欠如させている。
ベノールの軍事を支え、財政に巣食う巨頭だ。
「アゼイリアさん、相変わらず不遜ですね。
まずは我々の頭であるエレアス様の話を待つのが礼儀でしょう」
ラーダ司祭の少年、アードがはるか年上のアゼイリアをたしなめる。
宮廷内ではおとなしく、ただ紅顔の美少年と思われているアードであるが、
エレアスへの忠誠のみは絶対である。
そしてそれをもとう行動をするとき、彼に臆する所はまったくない。
それを重々承知しているアゼイリアは、「やれやれ」という風に肩をすくめた。
頭だの長だの、そんな堅苦しい物があるんだったら、円卓に座る意味がないではないか?
「では………スタン、ゼイン。計画の進行状況はどうだ?」
 威厳も何もなく、エレアスは唐突に聞いた。
「いつでもいいですよ。やれといわれれば、いつだってできます」
 スタンが答える。スタンはアードとほぼ同時期にエレアスへの傘下に入った、
いわば子飼いの盗賊だ。中年ではあるが、年相応の能力を海賊退治を経て得ている。
現在はこの島全域に盗賊ギルドの網を張ることを通常業務としている。
そしてそれ以外にも、エレアスの行動を色々と裏方面で後押ししていた。
「問題無」
 ごく端的にゼインは言った。普段着をきた彼は単なる年を食った町民にしか見えないが、
じつのところはファラリスの高司祭である。以前は海賊として働く一介の暗黒神官に過ぎなかったが、
エレアスの軍門に下っていこうその力を伸ばし、すでに高司祭の地位さえも授かっているのだ。
現在はベノール南方にある秘密の古代地下神殿の神殿長をしているが、
海賊退治中に各地にばら撒かれた彼の弟子が、現在もファラリスの布教活動中である。
そして埋まっている最後の席に座るのが、ゲイルという青年である。
その赤い目、青白い肌は多少学者の知識をかじった者であれば、
すぐにヴァンパイアの一門であると見抜くことができるだろう。
だが彼が吸血鬼で、ワータイガーであることを知る者は、ごく限られた人数しかいない。
個人の戦闘力としては、現在のエレアスの部下の中ではもっとも強力な力をもっている。
あと二つ、エレアスの右隣、左隣に空席がある。
この席はエレアスの副官である者と、このミラージュのナンバー2のためにに用意された席だ。
「大陸の………狂信者がどうも我々を不信がっている様子でな」
この場で『大陸の』という言葉は、すなわちアレクラスト大陸にある『漆黒の炎』を意味する。
狂信者とは、その組織を統べるマーファ神官、マリアのことだ。
「まあいずれベルクが囁いているんだろうが………。
我々のことも、半分くらいは掴まれているかもしれない」
「まさか。ミラーミラージュは一度、完全に崩壊しているんですよ。
トリックなしで。それがこんな風に集まっていることを、もうあの男はつかんでいるんですか?」
 アードが聞くと、それに反論したのはアゼイリアであった。
「あの………あの男を甘く見ない方がいいわ。
残念ながら、情報量という一端では我々はあの男の足元にも及ばない」
「身内贔屓」
 ゼインの短い言葉に、アゼイリアは鋭く反応した。呟いたその暗黒信者を激しくにらみつける。
アゼイリアと漆黒の炎の最高幹部である『智将』ベルクとが兄妹の関係にあることは、
この場の全員が知っている。そしてその中が極めて不仲であることも。
アゼイリアは言うなれば、ベルクに対してもっとも辛口の評価を下す存在なのだ。
ゼインの言葉は単なるからかい以外の何物でもなく、そしてそれが最高の成果を上げたことにゼインは喜んでいる。
「二人とも、その辺にしておけ」
エレアスが二人の睨み合い(というかアゼイリアの敵意)を押しとどめる。
自由を重んじるゼインと、限りなくその精神そのものが自由のアゼイリアに命令を下せるのは、
兎にも角にも世界でエレアスしかいない。
「それでだ。大陸の方にそろそろちょっかいを出そうと思うんだが、その前に隣国だ」
 ベノールの隣国、アザニアとザラスタは、近年ベノールに対しての感情がよくない。
それは隣国が軍事増強を続ければ当然もつ感情ではあるのだが、至高神を奉じるアザニアなどは、
暗黒神信仰を半ば容認しているベノールへの敵愾心は日に日に増加している。
「この狭い島に、三つの国は多すぎる」
「では……かねての計画通り?」
「ああ………」
 エレアスはうなずき、一呼吸置いて皆に計画の実行を告げた。
「共食いさせる」


アザーン島の最北端、大陸に最も近いザラスタの支配体制は王族が頂点に立つものではない。
古くから大陸との貿易で発達したこの町は、豪商たちが協力し合って評議会を運営することで成り立っている。
現在の評議会議長はダーヴィスという壮年の男だ。
ダーヴィスは、ザラスタの防衛力を傭兵のみで補うという考えでは守りきれないと考え、
最近常時町を守ることを責務とした防衛団を組織した。
海賊退治の後、隣国のベノールを復興するために大量の資金を出してしまい
経済的な苦境ではあるのだが、それゆえ万一のときに大量の金で傭兵を雇うよりは、
常時少数ながら統一の取れた防衛兵を雇っていた方がよいと考えたのだ。
そしてその防衛軍、『海鳥の爪』を訓練する特別顧問として、
アザーンを救った英雄、『黒の聖堂騎士』サイザスが一人が招聘されていた。
「おーい、サイザス。シーツの洗濯が終わったら、さっさとジャガイモの皮むきをやりな」
「うーっす」
 ここはザラスタにある酒場、『海蛇の牙』亭。酒場と宿をかねたその店が、
現在のサイザスの勤務地兼住居である。一般的には「住み込み」という。
彼にとってはこの店でバーテンやベットメイクなどの雑用をするのが本職であり、
『海鳥の爪』の顧問はアルバイトでしかない。
かなり異常な状況なのだが、彼は自分のこの境遇に満足していた。
という化、自ら望んでこの地位を得たといってもいい。
そしてこの生活を壊さないためにも、このザラスタがどこかに征服されたりするのは困るのである。
防衛軍の『海鳥の爪』は、もっと強くなってもらわなければならない。
ただ特別顧問の仕事も、「やっているうちに楽しくなった」という
彼特有の頑固さと移り気を混ぜあえた性格によって、
わりと彼の中で重要な位置をしめようとしている。
 サイザスはジャガイモの皮むきをはじめた。
戦場で人を切り殺すのは彼にとっては簡単だが、ジャガイモの身を残して皮のみを剥ぎ取る
一般に「皮むき」と呼ばれる行為は、サイザスの不得意科目の一つであった。
ましてそのジャガイモの目をとれといわれては、どうしていいかもわからない。
幼いときからすべての行動が標準以上にできたサイザスには、これは驚きであった。
ファンドリア随一の神童、『黒い太陽』の守り手と呼ばれた自分が、
アザーンではジャガイモの皮をむくのに四苦八苦している。
そんな日々をサイザスは、決して自嘲ではなく、微笑をもって迎え入れていた。
「なんだい、まだ終わんないのかい?」
「はい、すいません。おかみさん」
 サイザスはもんくをいう『海蛇の牙亭』の女主人に謝った。
何よりここには、彼女がいる。それだけでサイザスには十分の理由であった。
エルフの血が入っているらしいその顔には、サイザスよりずっと年上にもかかわらず、
まだまだ若々しい生気に満ちている。
酒場では彼女の尻にでも触ろうものなら即座に光と闇と、
その他存在するあらゆる精霊の洗礼を受けるために、
荒くれ者の船乗りからも恐れられている。
女はサイザスの剥いたジャガイモを見て、難しい顔をした。
まるで綺麗な四角形。それに対応して捨てられた皮には、厚い実が残っている。
「あんた。相変わらずぶきっちょだねぇ」
「自分では器用のつもりだったんですけどねぇ………。
どうにもうまくいかないです」
まるっきり責任のがれるするアルバイトの顔で、サイザスは笑った。
今このとき、この男がファラリスを奉じる闇の聖堂騎士であると説明されても、
世界中の誰もが信じないだろう。
その時、町に昼を告げる鐘が響いた。
サイザスのアルバイト、『海鳥の爪』を訓練する時間だ。
「あ………。おかみさん。ちょっと小用があるんですけど、いいですか?」
 サイザスはすまなそうに頭を下げながら申し出る。
「どうでもいい用事なんですけど、ちょっと頼まれちゃったもんで」
と言いつけたした。最近、これを言うことがサイザスの毎日の日課だ。
「まったく、しょうがないねぇ。夕暮れ前には帰るんだよ。
今日も港には船がくるんだ。船乗りたちが押し寄せて、忙しいんだからね」
女の言葉に「すいません。すぐ戻るんで」と繰りかえしながら、
古ぼけたブロードソードをもって出かけていった。



ザラスタの門から出てすぐの開けた草原が、
防衛軍『海鳥の爪』の主な訓練場だ。
もともと王族に支配されていないザラスタを守ろうとする、
市民の義勇兵から軍が組織されたこともあって、
兵たちの士気は一様に高い。だが最近、その士気の高さはさらに拍車がかかり、
さながら鬼気迫る訓練が繰り広げられていた。
訓練中に怪我をしたり骨を折ったりするものなどは日常茶飯事である。
「やめぇ!」
 古ぼけた草色の普段着を着たサイザスが、簡素な鎧をまとう兵に号令を掛けた。
行き過ぎた訓練は、軍隊としては何の役にも立たない。
統一の取れた行動こそが軍隊には求められるのだ。
それが、『海鳥の爪』特別顧問、『黒の聖堂騎士』サイザスの考えであった。
サイザスはブロードソードを手に持ち、特にいきり立つ6人の男たちを指差した。
「お前たち、同時にでも何を使ってでもいいから、俺をたおしてみろ」
ザワリ、と兵たちの間で動揺が走った。
横列に並ぶ兵たちは、隣にいる者と次々に囁きあう。
「む、無理ですよ。英雄であるサイザス師にたった6人で勝てるわけがありません」
「そうか? 武器も装備も人数も差がある。意外にいい勝負になると思うぞ。
俺は魔法は使わん。剣のみでやる。それに………」
サイザスは注目する200あまりの防衛隊全員に聞こえるよう、声を大にした。
「ベノールの宮廷魔術師も、俺と同じく英雄と呼ばれているぞ」
 その言葉の意味するところは、一つであった。
だが外交上の理由から、評議会員も、防衛隊の隊長も口にすることは許されていない言葉。
結局のところ、兵たちの異常な士気の高さは、隣国ベノールの動きにあるのだ。
軍の増強に、怪しげな軍艦の建造、人ですらないものも多数その軍にいるという噂だ。
そしてそれを強烈に後押しする宮廷魔術師の存在が、生来からの魔術への不信もあいまって、
兵士たちを恐怖に陥れているのだ。異常なほどの訓練への入れ込みは、
その恐ろしい軍と戦わねばならないことを忘れるための手段であるかもしれない。
「どうした。かかってこいよ。怖いのか?」
サイザスの安い挑発の前に、6人の兵たちは意を決して挑みかかった。
それはサイザスの予想したとおり、全員がばらばらに無軌道な攻撃を掛けてくるだけであった。
訓練とはいえ、英雄と対峙する緊張もあいまっているのだろう。
しかし訓練でこれではいくら鍛錬しても、いざベノール軍と向かい合ったときに、
兵たちは何もかもを忘れて突撃してしまうかもしれない。自身の心に湧く恐怖を押し返すために。
「そんな攻撃で、俺が倒せるか!」
 サイザスは相手が死なない程度に、しかしそれ以上はまったく手加減なしで兵士たちを打ち倒した。
「そんな身投げのような狂騒で倒せるほど、我々の敵は甘くはないぞ。
猪のように突撃するだけなら獣にだってできる。
恐怖に打ち勝ち、冷静に戦うことこそが我々にとって必要なことなのだ」
サイザスはまた大声で兵士たちに言った。兵士たち、
そしてその隊長までもが感涙しそうな勢いで深くうなずく。
(俺も、似合わんことをしているな)
 心中で自嘲していると、町に夕刻を告げる鐘が響いた。
サイザスの任務時間の終了だ。
「では隊長。私は町に戻る。訓練の続きをお願いする」
「は! 承知いたしました!」
 隊長が直立不動で敬礼するのに軽く返事をし、サイザスは町に戻っていった。



 アザーン本島にあるもう一つの国、アザニアは至高神ファリスの信仰が盛んな国である。
その強い信仰心とまとまりのもとで、古くはアザーン本島すべてを統べるほどの強国であったのだが、
近年その力は衰えてベノール、ザラスタの勃興を許す結果となった。
そして昨年起こった海賊退治、ドゥーム封印という二つの戦いを経て、
アザニアはさらに戦力を落とす結果となっていた。
そんな中、日々聞こえてくる、隣国ベノールの軍拡の噂は、アザニアの首脳部を痛く悩ませていた。
海賊退治の折には、アザニアはベノールを陥落せしめた経験がある。
そして今度また戦がおこるとすれば、その時は逆の結果となるであろうと、まことしやかに囁かれるほどだ。
そして今日、爆発寸前の火山のような状態であった王宮、神殿合同会議にて、
驚くべき提案がなされたのである。
「近年、ザラスタに常設軍が設立されたのはご存知ですかな?」
 発言をしたのは、対戦中に暗殺された最高司祭の代理を務める、バウロ最高司祭代理であった。
この日の議題はベノールに関することだとばかり思っていた、
国王ブルドン、ライケン将軍、ユーシス宮廷魔術師は、その点でまず意表をつかれた。
「ご存知でしょう。『海鳥の爪』という部隊です」
別の司祭が、バウロの発言を補足した。
どうやらこの日の話は、神殿内ではすでに見解の統一がなされているようである。
(で、あればまずは神殿側の意見を聞くしかないな)
 いまだ若き国王、ブルドンは沈黙を守り、神殿側の話を促した。
「ああ、知っている」
「ではその『海鳥の爪』の指揮官が、あのデーモンであることはご存知ですかな?」
 アレクラスト大陸において、デーモンとは基本的に異界の住人、『魔神』の事をさす総称である。
だがことアザニアにおいて、しかも大戦を経験したものにとっては、デーモンは別の意味を持っていた。
 曰く『黒の聖堂騎士』
 曰く『闇より来るもの』
 曰く『暗黒の尖兵』
 曰く『気まぐれの魔神』
 それはデモンズメイルという禍々しい鎧を着た百戦錬磨の男、サイザスを意味する言葉である。
大戦時にアザニアがベノールを陥落させた後、その防衛戦で見せた
彼のあまりの強さが、その二つ名らの原因である。
味方としてなら畏敬の念も持てるが、敵として戦った者にとっては
畏敬をはるかに通り越して、恐怖の対象でしかない。
もちろんそれには、彼がもつファラリスへの信仰も重要な要因の一つだ。
「かのデーモンは、ベノールの宮廷魔術師とは同じ冒険者として共に旅をした仲です。
死線をくぐり向けたもの同士、深い友情があるとみて間違いないでしょう」
「そのデーモンが、ザラスタの軍を練兵しているのです」
「しかもベノールの軍強と呼応して」
「さらに、噂ではザラスタの町にファラリス信仰が広まりつつあるとの話も聞きました」
「もともとわがアザニアは、上にザラスタ、下にベノールと挟まれた国として存在しております」
「かの二国が手を組むとなれば、その狙いは一つ………」
 神官たちの言葉は、そこで一息ついた。
他の者たちにも、彼らの言いたいことは十分伝わっている。
だが念を押すように、ベルドン国王はバウロに聞いた。
「つまり、バウロ最高司祭代理が危惧する所は、ザラスタとベノールが
手を組んで、われらアザニアを狙っていると、そういうことだな?」
「まことに、そのとおり。憂慮すべき事態でございます」
「で、どうするべきだと?」
 ベルドンは睨むようにバウロの言葉をさらに促す。
「は、先ほども申し上げましたが、わが国は上にデーモン、下に異形の怪物のごとき軍にと挟まれております。
すでに憂慮の時はなく、しかもこのままでは時間がたつほどの不利となりましょう。
もはやここに至っては、剣の力をもってファリスの威信を示す以外にはありません。
しかしベノールはすでに軍の増強を終え、また先の大戦の賠償金も
わが国とザラスタから得ておりますれば、金銭的余裕も十分にあります。
しかしザラスタはわが国と同様、賠償金を払う側の立場であり、
また軍も設立してまもなくであれば士気も低く………」
 バウロの言葉を、ベルドンは他人事のように聞いていた。
至高神ファリスの言葉を伝える神官が、間違いなく「弱い方から攻めろ」と
すすめているのに、ひどくさめた気持ちなのだ。
「まるで将軍のようなものいいだな。バウロ最高司祭代理。
状況の確認は十分である。ファリス神殿として、この王宮に何を望むかを存念なく述べよ」
 ベルドンのいらつきをものともせず、バウロはこの場にいるすべてのものが
予想した言葉を、はっきりと国王に言った。
「王。いまこそザラスタを攻め、ベノールの巨悪に対抗する時です」
 神官たち全員が大きく同調し、うなずいた。
国王は誰にも見えない心の奥深くで、静かに溜息をついた。

アザニアではその日、深夜にまで会議が行われていた。
といっても神殿、王宮の合同会議はすでに日の高いうちに終了している。
バウロ最高司祭代理が神殿の所存をはっきりと述べた。
そしてその意見を変更する意思のないことも、他の神官たちの様子から読み取れた。
あとは王宮としてどうするかを決める会議、というか話し合いである。
小さな応接室に、国王ベルドンと、宮廷魔術師ユーシス、ライケン将軍の三人が集まり、
ともすれば溜息の出そうな顔を並べていた。
「まいった………正直、まいったよ」
 ベルドンが頭を抱えながら俯いていた。
昔の、今だ王位につくこともなく、兄が健在中の弟という、無責任でいた頃の口調だ。
そしてそのまま顔を起こそうとする気配がまったくない。よほど打ちひしがれているのだろう。
「仮定の上に仮定を重ねて、そして出た結論に変更する意志がない、と。どうしたものですかなぁ」
 ライケン将軍が昼の神官たちを評して、そう言った。
「ベノールとザラスタが同盟を結ぶという噂は、私も聞きましたよ。
それにザラスタの町では、最近、急速に暗黒神の信仰が進んでいるそうです。
町の酒場でなら、毎日のように聞ける話ですね」
 ユーシスが言った。噂を信じている様子はゼロだ。
「罠、でしょうかね?」
「十中八、九。いや、これはもう、疑い様のない罠でしょう。
そして我が神官様方は、見事にひっかかってしまった」
 ユーシスは言い、そしてしばらく考えたのちに言葉を付け足した。
「しかしこの罠の悪辣なことは、嘘が半分以上、嘘ではないことにあります。
あのデーモン………サイザス殿が軍の顧問をしているのも、ザラスタが軍を組織したのも事実です。
それが攻性なものかは別ですが。暗黒神の信者が増えているのも多分ほんとうでしょう。
サイザス殿にあこがれてか………大戦中に布教活動をしてる者がいるという、目撃証言もありますし。
それにわが軍がザラスタを攻めれば、ザラスタは否応なくベノールと手を結ぶしかありません」
「嘘が真実になってしまいますなぁ」
 ライケンが合いの手を入れる。
「………それで、ユーシス。わがアザニアはどうすればいいと思う?」
ベルドンが信頼をしきった目で、というか頼りきった目でユーシスの顔を見た。
もともとベルドンは乱世に生きるタイプの人間ではない。
多大な責任を生きがいとするよりは、重荷と感じる人間である。
決して無責任な人間ではないが、それゆえ何でも完璧に解決することを欲し、そのための知恵を欲しているのだ。
(おそらく………私の言った案が通り、アザニアの将来を決めるだろう)
ユーシスは自分に課せられた責任の重さを感じながら、ゆっくりと口を開いた。
「すでに清廉潔白でいける状況ではありますまい。まずはザラスタに使者を送ります。そして………」
 ベルドンはユーシスの話を聞き、その責任感と潔白さからより苦悩することとなった。
しかし結局の所、王は国を守らねばならないという使命感に背中を押され、渋々その案を取り入れることとなる。
 一通の文章が早馬でアザニアからザラスタに送られたのは、それから6日後のことであった。


 アザニアからの使者は、ザラスタ評議会を動揺させるに十分な内容だった。
単なる自治都市が軍備を整えるのだから、隣国としては当然抗議はするだろう。
そこまでは評議委員誰もが予測していたが、それがここまで苛烈な内容とは、まったく考えていなかったのである。
 抗議文はすでに抗議の範疇を大きく超え、脅迫の領域に入っていた。
ともすれば、悪辣な宣戦布告とすら取れる内容である。
アザニアからの文書の内容は、つまるところ以下の3つを伝えていた。

一、 ザラスタは商業都市としての本来の姿に戻り、即刻軍を解体すること。
二、 ザラスタ市民、サイザスに暗黒神信仰の疑惑があるので、宗派取調べを行いたい。
   ザラスタはその光の神を信じる良心のもと、即刻サイザスをアザニアに送られたし。
三、 以上二つが守られなければ、アザニアはザラスタに暗黒神信仰者の擁護、
   および侵略の意思があるとみなすものである。

「なんなんだ、これは!」
 ザラスタ評議会議長、ダーヴィスが送られたアザニアからの文書を読み上げたとき、
始めに発せられた評議委員の言葉がそれであった。
そしてそれは他すべての評議委員の意見を代弁していた。
「あきらかにわがザラスタの内政に干渉している。これはこちらも使者を発し、正式に抗議すべきである!」
 若い評議委員が怒りに肩を震わせ、起立しながら発言した。
「使者のなり手がなければ、私が自らアザニア王に面会してきてもよい」と、意気揚揚と付け加える。
 だがダーヴィスは静かに首を振るだけだった。
「いや、無駄だろう。自体はもはや、そういう状況ではない。
内政干渉とか、抗議とか、そんな生易しい場に、我々はもういないのだよ。
航海で言うならば、すでに嵐のど真ん中にいるのだ。いまさら船の状態に文句を言っても仕方あるまい?」
 言われ、若い議員が黙る。代わりに発言したのは、壮年の議員であった。
「ダーヴィス議長。今回、問題にされているのは
『海鳥の牙』を設立したことと、ザラスタでの市民権を『黒の聖堂騎士』サイザス殿に与えたことですな。
私の記憶するに、それを提案し、実現したのは議長殿だったように記憶するのだが………」
「皆!」
 壮年の議員の言葉が終わるのも待たず、ダーヴィスは話し出した。
そのあまりの声の高さに、つい先ほどまで話していた壮年の男までがビクリと肩を震わす。
「繰り返す、我々は今、嵐の中にいるのだ。
いまのままではおそらく半年ももたずにこのザラスタという船は沈んでしまうだろう。
くだらぬ虚栄心や、権力闘争にかまけている暇はないのだ!」
 日ごろの穏健な様子とは打って変わったダーヴィスの様子に、議員一同ははからずしも同時に息を飲んだ。
「やれやれ、だなぁ」
 先ほど発言を差し止められた壮年の議員は、まるで好々爺のように笑いながら息を吐いた。
「まぁ………あんたの言うとおりだな。ダーヴィス。
今回は休戦だ。騒動が一段落するまでは、リコールを要求せんよ」
 議員はいきなり口調を変えて、古い友人に話し掛けるように話した。
ともかくもその発言によって、会議場内はひとまず穏やかな風がながれた。
「で、このアザニアからの無礼極まる文章だが………、ダーヴィス殿はどう考える?」
若手議員に、会議を引き締めるかのように聞かれ、今度はダーヴィスが息を吐いた。
実の所彼にもいまだ、確固たる方針は決まっていない。ゆっくりと目を瞑り、思考を深く沈めて静かに瞑想する。
(いまのザラスタには、傭兵を雇うような金はない。
そもそも豪商に募って金を集めた所で、雇うべき傭兵がいない。
主だった者は、すでにベノールに行ってしまった。
だが金がないのはアザニアも一緒。むしろ深刻なはず。
そして戦とは通常、攻める側の方がはるかに金を使う。
騎馬隊を連れて行くための飼い葉代や世話人の雇い賃、船を動かすための船乗りの食料、
どれも今のアザニアには逆さに振ってもでないだろう。
とすれば戦力は歩兵と、信仰の力に支えられた神官戦士団に頼らざるを得ないはずだ。)
たっぷり5分押し黙り、ダーヴィスは結論した。
「もはや………アザニアとの戦いは避けられないだろう。
かの国が我々に望むものは一つ、わが国の従属だ。
おそらく拡大するベノールの武力に対抗するためであろうが。
その方法を単純に親交と考えていたのは、私の考えの浅さであったな」
「それはもういい、ダーヴィス。こんなアザニアの暴発など、誰も予測できなかった」
「それで我々の取るべき道だが、まずはアザニアへ返書する」
「!? あの無礼に、礼儀をもって対応しろと?」
「そうではない。もはや戦いは避けられないのだから、礼儀を保つ意味はないだろう。
我々商人は、実質第一だ。返書に送る内容はこうだ。」

「我らザラスタに暗黒神信仰の意思はない。
しかし、いかにアザーン本島を救った救国の英雄とはいえ、
ファラリス神を信じる意思のあるものに軍の教育を任せたのは誤りであった。ゆえに彼は解任する」

「………サイザス殿を、解任するのか?」
「我らが欲したことを、勝手な都合で断るのは彼にとって無礼だが、この場合は致し方ない。
どちらにしても、暗黒信徒との付き合いはいずれ考えねばならない問題であったしな。
それに、彼を解任することで、アザニアにいるファリス神官側が我が軍を攻撃する理由はなくなる。
こちらが受ける損失より、敵の受ける損失の方がはるかに大きい」
「そうではあろうが。敵がくるというのに国内最強の戦士を解任するというのも………」
「三度目だが、我々は嵐の中にいるのだ。いかに大切な荷であったとしても、船が沈んでは意味がない」
「彼を………捨てるのですか?」
「そんな恩知らずな真似はできない。
こう見えても、私は彼がこのアザーンに渡った時から知っているんだよ。
義理もあるし、それ以上に恩もある。あくまで解任するだけだ。
その後、彼は放浪のたびに出た、ということにしてもらう。
これで少なくともアザニアがわれらを攻める理由はまた減る」
 それに関しては、全員がうなずいた。
「最後の軍の設立に関してだが、ここまであからさまな内国干渉には、もはや応じられんだろう。
一戦交えて、どちらに生きる価値があるかを運命の神チャ・ザに伺うしかあるまいよ」
「何だ、結局最後は運任せか、ダーヴィス?」
 壮年の議員が、あきれたように言う。
「ああ、そうだ。お前とこの評議長の座を争ったときも、結局最後は運任せだった。
そして私が勝った。海賊退治のときも、虹の谷問題のときもだ。
我々はいつだって人事を尽くしてきたんだ。その上は、もはや天命に任せるしかあるまい?」
「それもそうだ」
 壮年の議員はダーヴィスに同調した。
そして最後に、この場にいる全員がまず考え、そして言い出せなかったことを壮年の議員が代表として聞いた。
というか、確認した。ここまで誰も言い出さなかったことで、その考えはほとんど決定しているようなものだからだ。
「でだ………一つの手として、ベノールに使者送り、かの国と協力する方法が考えられるが。どうする?」
 聞くまでもない、といった顔で、ダーヴィスがそれに応じる。
「もうみんなわかっているだろう? 我々が今直面している嵐を、誰が起こしたのか? それに………」
 ダーヴィスは各議員の顔を見回した。
金に汚く、利に聡く、しかし商人としての独立に気概をもった男たち。その男たちは、すでに知っているのだ。
自分たちの金がすり減らされたのは誰のせいか。今ベノールと手を結べば、得をするのはどの国か。
そして手を結んだ後、その同盟で商人として自立するのがどんなに困難か。
議員たちは、すでに知っているのだ。
「まあ、もう言う必要もないことだ」
ダーヴィスはその言葉をもって、会議をしめた。議会で出た結論は、即日ザラスタの意思として実行された。


「おかしいなぁ………?」
ベノール王城最高執務室にて、アードは手早く書類を整理しながら、
ある書簡がなかなかこないことを疑問に思っていた。
 スタンの部下からの報告書で、うまくアザニアとザラスタを交戦状態一歩手前まで追いやったことは知った。
だがその場合、必ず来るはずと思っていたザラスタからの救援、
もしくは同盟の申し出の書簡が、いつまで待ってもこないのだ。
 エレアスの考えでは、必ず同盟の申し出が来るということであった。
であれば必ず来るはずなのだが、それが奇妙なことに、いつまでたってもまったく来ない。
「まあ、年に一度はエレアス様も間違えることがあるのかな?」
 アードは小声で呟き、山と積まれた書類を猛烈なスピードで処理していった。
アードは「熱狂的忠誠」という色眼鏡によって気づいていないが、実際エレアスのミスは
それこそ年に一度ではほど足りず、細かい所をいれると両手を半年で使い切ってしまうほどである。
魔術師としての彼は間違いなく稀代の天才といえるのだが、覇権を目指す君主としての彼は、完璧には程遠い。
おまけをしても「まあ優秀な部類」といわれるほど程度だ。
ただその限られた才能を要所要所で抑えて行動しているため、全体としては最短コースを通って、
覇道の道を突き進んでいるように見えるのである。
もちろんその勘違いの原因として、アードは自分のすべての行動をエレアスに報告するが、
エレアスは別に行動のすべてをアードに言っている訳ではない、ということもある。
 ともかくもアードは、数少ないエレアスに「熱狂」している部下として、ベノールの行政部分を支えていた。
神官長である彼が行政を行うのはかなりの異常事態ではあるのだが、これにはきちんとした理由がある。
 王女の権威がエレアスによって害されるなか、
それまで宰相として国を支えてきた『旧王女派』の筆頭であるサイノン公爵が、
やる気を著しく害して屋敷に引きこもり、働かなくなってしまったのである。
さらに海賊退治の立役者の一人、レパース伯爵に付き添ってきた昔からの『旧レパース派』の外相、
アマルテア伯爵も、高齢を理由に職務をほとんど放棄している。
『旧王女派』の商業大臣、メーベルはとりあえず自分の職務だけは行っているが、
たいして頑張る理由もなく、行う業務は商業のことのみに限定されている。
そんな中、行政の職務を代行すべき宮廷魔術師のエレアスは超多忙であり、
ベノールにいることも少ない状態なので、宮廷内にくる責任者不在の業務は、
すべてアード少年がまかなっているのだ。
 しかしそれでもベノール宮廷内のすべての大臣が、やる気を喪失しているわけではない。
少なくはあるが、もう1人だけベノール屋台骨を支えている者がいる。
それがレパース伯爵である。
将軍の死亡と出奔の積み重ねによる先送り人事の末、唯一残った将軍として
軍務すべてを束ねることとなったレパース伯爵は、大将軍として軍の編成に精励していた。
弱冠、15歳の少年である。リュシア王女と仲のよい彼が、現在のベノールのために動くことを疑問視する者も多いが、
ある時その事をアマルテア伯爵に問いただされた彼が呟いた言葉が、現在のベノールの状況を如実に物語っている。
「もう僕以外にいないだろう」
 さすがにその言葉を聞いた後はアマルテア伯爵もバツが悪かったのか職務を行おうとしたが、
よる年波には勝てずにその日のうちに腰痛と首の神経痛を併発して屋敷に帰った。
伯爵が王宮を去る日も近い。
 そのような理由で、現在のベノールは13歳の少年が内務(それに、ほんの付け足し程度にメーベル商業大臣)、
15歳の少年が軍務を統括していた。
国としては大変な自体であるのだが、それでも国として車輪が回転するのであれば問題もさして生じず、
さしあたりの問題が生じまくっている現在では、むしろ業務を行う者がいることを歓迎すらしていた。
一般人にとっては今現在すむ家がなかったり、王都の周囲に妖魔が出たり幽霊船が出たり、
ワイバーンが飛行することが大問題となっており、エレアスらにとっては、単純に他のやることが多すぎるからだ。
 隣国に恐れられるベノールも、内情はギリギリの所で運営しているのである。
「アード」
 ノック音と共に、アードは名前を呼ばれた。
返事をするのも待たず扉が開かれ、そこには暗黒司祭ゼインがいた。
「あ、ゼインさん、どうかしましたか?」
「首領何処?」
「エレアス様ですか? 出かけていますよ」
「何処也?」
「いえ、おっしゃらなかったので、知りません。
たしか………昔振られた女の子の性格が変わったから、それを見に行くといってました。
最近のライフワークだからと………」
 言われ、ゼインは難しい顔をした。
それは評するなら『仕入れ値に困る八百屋』といった風であり、つまりたんに困った顔をした町のおっさんだ。
暗黒司祭という様子はまったくない。それが彼の利点、というか長所でもある。
 そして言ったアードのほうも、自分の言葉に首をかしげていた。そして「何なんでしょうねぇ」という言葉をつなげる。
「戻即話。『野犬計画』のことで話がある」
 『野犬計画』これが最近ベノールの周辺を騒がせる、妖魔の群れの原因である。
もちろん妖魔はなるべく森の奥に住まわせるようにしているが、
なれない土地なので町側に出てしまうこともままあり、それが問題になっているのだ。
「『野犬計画』のことで、話があると。では第一次計画は終了した訳ですか?」
「是。二次計画に移る。エレアスと話をする必要がある」
「わかりました。伝えておきます」
 アードが受けると、ゼインは部屋を後にした。そしてまたアードは地道に書類を処理していく。
概ねやることは、ザラスタとアザニアから分捕った賠償金を王都再建に分配することと、妖魔の被害の補償などだ。
 そんなことをつづけること4時間。そろそろ日が暮れようとしていた。
 結局、ザラスタからの書簡は届かなかった。変わりに、スタンの部下からの報告書が届いた。
 アザニアがザラスタに向けて、軍を発進させたとの報告であった。


 アザニア軍出発、一週間前。アザニア国境にて。
 アザニアの宮廷魔術師ユーシスと、ライケン将軍はザラスタからの書簡を見ていた。
ザラスタからの書簡は、アザニアの宮廷魔術師、ユーシスの予想したとおりのものであった。
『黒の聖堂騎士』こと、サイザスを軍務から解任したのだ。
これでとりあえず、アザニアのファリス神殿が公に非難する理由はなくなった。
あとはザラスタ内で増えているファラリス信仰であるが、
これは隣国であるアザニアが司祭を送ってゆっくりと教化するのが筋であり、
ザラスタもその申し出を断ることはしないだろう。
結局、アザニアのファリス神殿は、戦端を開くにあたって身動きを封じられたに等しい。
「この書簡が、わが国に届けば、ね」
 ユーシスは隣にいるライケンを横目で覗いた。
ライケンはどことなく愛嬌のある顔を難しく歪めながら、書簡の内容を見ている。
「では、よろしいですか?」
 ユーシスが最後の確認として、ライケンに聞いた。
「いかようにも。これで我がアザニアが守られるというのであれば、このライケンのなかに迷いはありませんぞぉ」
「………よろしい」
 ユーシスは静かに上位古代語を唱える。
「点火(ティンダー)」
 ユーシスの指先から小さな種火が生まれ、すぐさま手にもっていた書簡に燃え移る。
10秒も経たずにそのザラスタの意思を伝えた紙は、灰となって空中を舞った。
「我々は何も受け取っていない。よろしいですな?」
「無論だ」
「ではライケン将軍は、神官戦士団と、歩兵団の組織をお願いします。
私はこれと同等の書簡がもう何通か送られているでしょうから、それを水も漏らさず処理してまわります」
「承知。取りこぼしのないように、おねがいしますぞぉ」
「わかってますよ。………陛下に………陛下にこれ以上苦労を負わせたくありませんから」
「………そうですなぁ」
 ライケンはユーシスの魔術ですぐさま王都に戻り、出兵の準備を急速に進めた。


同日。アザニア、ファリス大神殿にて。
バウロ最高司祭代理の前に、白銀の鎧を身にまとった男が立っていた。
「我がアザニアを守るために、ファリスの教えを守るために、この戦はどうしても負けられぬ」
 バウロが男に向けていった。
 白銀の鎧を着た男の名はラヴェル。
ほんの三ヶ月前までは、ベノールでもっとも高貴であるリュシア王女を守る近衛騎士であった男だ。
熱心なファリス信者でもあり、リュシア王女の信任も厚い彼がなぜベノールから解任されたか。
その理由は、バウロにも当然わかっている。
つまりファリスの教えに熱心で、リュシア王女の信任が厚いことが、
ベノールの宮廷魔術師には邪魔だった、ということだろう。
 ともかくもラヴェルは紆余曲折を経て、このアザニアのファリス神殿に世話を受けていた。
「ザラスタを、攻めるのですか?」
「そのとおり。先の大戦時に見逃したあのデーモンを、我々は神の名において倒さねばならない。
そして来るべき巨悪を葬るためにも、小さき力は一つとなっておかねばならないのだよ」
 バウロの言葉に、ラヴェルは言い返したいことが山ほどあった。
しかし居候のような身分の彼には、そんな権利はない。
しかしそれでもなお、一つだけ言っておかねばならないこともある。
「あの………デーモンには、我々も恩を受けたと思いますが」
「卿! そのような味方の士気を落とすような発言は、厳に慎んでくれ。
、、、、、君のいた国は彼に助けられたかもしれないが、わが国は違うのだ!」
「………もうしわけありません」
「うむ。わかってくれれば、それでいいのだ。
それで卿、我が神殿は、絶技といわれた卿の剣技に、非常な期待を寄せている」
 バウロはそこまで言って、ずいとラヴェルのまえに近寄る。
「われらの期待に、応えてもらえるだろうか?」
 その言葉を聞き、ラヴェルはしばらく無言であった。
選択する自由はない。
ならさっさと応じてしまえと、心の中で囁く者がいるのだが、その言葉はなかなかラヴェルの口からは出なかった。
「応じて、もらえないのかね?」
「………いえ。お受けいたします。バウロ最高司祭」
「………ん?」
「あ、いや。最高司祭代理でした」
「いや、かまわんよ。すべてが終わる頃には、私もそう呼ばれているだろう。
今からそういわれても、まったく気にはせん」
 あまりと言えばあまりの物言いを、バウロは簡単に言ってのけた。
たった二人しかいない部屋だから戯言としていったのか、ポロリと本音を言ったのか。
おそらくは前者だと思うが(というか思いたいが)もしも後者だとしたら、これは大問題だ。
「バウロ殿!!!」
「ふ、っふふ………、冗談だよ、卿」
 バウロは白い髭を揺らしながら笑うが、ラヴェルの顔がそれを冗談として断じていないのを感じ、
咳払いをしてまじめな顔に戻る。
「では卿。明日からはライケン将軍の指揮に入ってくれ。
卿の望みどおり、名前は伏せておくようとりはかろう」
 バウロの言葉を聞き、ラヴェルはとりあえず形式にはまったく問題ない礼のとり方でその部屋を後にした。

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