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八重奏

中野隆行
授受されるべきあるものについて語ろうにも、この地では、表札を掲げていないところから察するに、あまり歓迎されていないようだ。メレンベルクのベンツ通り(Benzstrasse)全体を占めるZYXミュージック有限会社。社名同様、通りの名前自体にも、ありきたりながらリアリティーの込められていることを我々は否定できないが、そこに「何番地」の表記が伴わないのはきっと、よっぽど社屋が巨大なのか、それともこの通りが単に短いだけなのか。自走困難でなくとも姉だったらただ泣く以外になかったのであろう。旅先で慈悲を乞うなんて、恥とは言うまい、だがこういう人は旅行よりもむしろギャンブルの方面に素質があるのではないだろうか。通りのどちら側を探せばよいか。一方の側が崖に面している場合を考慮に入れておかなかったのはまずひとつ、責任問題の第一項を叩き起こす出発点としては悪くない。崖と言って悪ければ、開口部の全くない塀。二度と取りだすまいと誓ったプラスチック製名札の台紙。誓いは大いに結構だ。誰に誓うかはこの際問題ではない。誓いの場へといたる道筋なら少しは考えないと、ウソでもいいから考える素振りだけは見せておかないと。目につく場所に、白昼たとえば居間のど真ん中に金属バットを三本「銃叉」の恰好にして置いておくと、成長の課程がよくわかる。この位の誠意は見せておきましょう。誓いの言葉? 自然数には偶数と奇数とがあるから、誓いの言葉などというものは、数でありさえすれば即それっぽく見えるはずなのだ。一度も入ったことがないから自分にとっては存在しないも同然の湯島聖堂のわきの下り坂とかを想像できれば上出来。あのそばにはタマネギ頭のニコライ堂もあり、そのてっぺんにはホオジロが一羽とまっていたりもする。前者はあくまで地図上の一記号でしかないけれども、後者はよくご覧なさい、姉が転倒したときのひっかき傷も生々しく、二度と取りだすまいと誓ったプラスチック製名札の中にしっかり封印されているではないか。

たったいま成し遂げた(俗に「キメた」とも)ある行為による栄光の感覚とともに街に出よ。輪のかがやく広場をもとめよ。煙をかいくぐって前進しよ。――もっとも、「ウ音便省略」の大流行はそうそう長続きすまい。あえてこの者が予言するまでもなかろう。一方、収穫するものなんか何もありゃしないのに毎年お決まりの時期に催される事実無根の収穫祭は、すたれるどころか、「ウ音便省略」戦略のターゲットとして狙い撃ちされていて本来なら息も絶え絶えのはずの「マニュアル通りに全身反抗期!」の若者層の熱狂的な支持を集めるまでにいたっている。意外だ。不条理には反抗してはならぬと幼い頃から飼い慣らされているのだろうか。そうだったとして、彼らを飼い慣らしている「ボス」に相当するのは一体どこのどいつなのか。深まるばかりの謎にいろどりを添えるべく質素な拡声器からエンドレスに流される規則的な音響も、案外彼らの穴だらけの耳には快感なのかもしれない。だがこの者にかぎっていえば、「増産また増産」の後援会にさえ名を連ねていない。困ったものだ。拡声器の増産にだって追加分の投資が欠かせないことはいうまでもないが、その資金集めが主目的の今回の講演旅行。先生はしかし、意表を突いてタクシーでご登場だ。お帰りも同じくフォードのタクシー。同行した姉が言うには、これはこの地を離れる頃になってようやく気付いたらしいのだが、この地ではどうもタクシーに乗るとき、後部座席からではなく、助手席のほうから埋めていくのが正式とされるらしい。しかも荷物はトランクにではなく、どんなに大きかろうと必ず膝に抱えて持つこと。この地でなくとも旅行者のつねで姉は大変早起きなのだが、朝の七時に精算を済ませて空港に向かうべくタクシーを呼んでもらう間に居間のソファーでくつろいでみる。この地でなくともくつろぎ方の学習にはそれなりの時間がかかるものだ。カーテンから視線が自ずと旧式の蓄音機をとらえる。朝顔の紋様はアールデコ風で、ブナの木陰でエーデルワイスを片手に乙女がホオジロとたわむれる様が表現されている。ちょっとネジを巻いてみてもいいですかと宿の主にゆるしを乞うつもりが、また寝に戻ってしまったのか主はもうそこにはいない。さてベルがタクシーの到着を告げる。もちろん一台だ。これが先刻のフォードよりさらに落ちるベンツの一番安いモデルだったりするのだが、ラジオで唯一わかるのは時刻ぐらいだろうか、あともうひとつなつかしのあの音響。規則的だけれどもあまり美的ではなく、ちっとも洗練されておらず、無意識に訴えることばかりを意図しているのがちょっと嫌味に聞こえなくもない件の音響が、快感と頸骨の疲労以外は何も残さずに季節とともに去ってゆくのがあらかじめわかっているのと同様、この者もまた、不平不満をわめき散らす以外にリアリティーとかかわる手段を持たず、開き直ってねじれハチマキに「油脂工房・土曜のみ開講」などと塗ったくって会員募集に走り回るも早晩ネタ切れとなり、きれいさっぱり清算するしかなくなるであろうと、こればかりはあらかじめ定められているのであろうか。

たしかに浮き袋は出てきた。でもこれだけでは、海が油脂で汚染されていることの説明としてはちょっと物足りない。油と脂肪はごっちゃにしないほうがいい。そうではなく、訴える先を勘違いしているのではないかと耳打ちされれば、たしかに私にも思いあたるフシがある。ほかでもない、独ベンツ社がある時をさかいに「主よ、我々は気紛れ旅行の忘れ物では断じてない!」派と「ご自身で掃除を終えるまでは、我々はあくまでゆるしませんゾ」派の二極に政治的に分裂することにより、映像はそのままで組織としての一貫性を放棄するにいたった経緯をここでもう一度思い返してみる必要がある。今さら「お勉強」でもなかろうが、私たちはここから何かを学ぶことができるのではないだろうか? 白々しい! 純粋に客観的な「一貫性」などこの世にありえない以上、組織の存在にリアリティーを賦与するのも、思考主体としてのこの「私」以外にはありえないのだから。こんな自明のことを私は、恥ずかしながらつい先日、庭をほじくり返しに来た一羽のホオジロ(鳥の名)に暗示されるまで知らなかった。庭の掃除にしろ何にしろ、あまりためてしまわないほうがいい。毎日少しづつでも片付けていこうと思う。もちろん、まずは分析が必要だ。時間配分のコツは仕事の種類にもよるから。熟練を要するような場合は、いちいち勘をとりもどすのに時間がかかるような場合は、明らかに毎日コツコツのほうが最終的に効率が上がり、気分のうえでも過度に消耗しないで済むものだ。このホオジロ(白状するが自分はほんの数日前までこの名詞に、記憶の誤りというより連想の気ままさから、何か全く別のある「状況」を対応させていたような気がする)にしても、高校の生物の実験に供されるあわれなフナたちの集団墓所の発掘に見事成功すると、実際に掘るのはもちろんホオジロではない、イヌどもが後を追うであろうから、礼も言わずにホオジロはさっさと去って行くのではないだろうか。

何はなくとも水が必要だ。ここは京都ではない。当然淡水であろう。裸体はいまや銀である。メスをもて。手袋も忘れぬように。老いるとは一枚一枚脱ぎ捨てゆくことなのか。それでも構わぬ。われらのエヴィアンがレンズの中にしか存在しないとしても。自らの老いたるをいさぎよしとしないジェイムズ・B・ライリーJames B. Riley(なおミドルネームの「B」について彼は多くを語りたがらないが、ある穀物の名前に由来するという)。ジェイムズは、目の乾かぬうちに、あるいは口の渇かぬうちに悪態をつくことは恥だと思っている。飲る(やる)前に一息つくいつもの癖はどう説明したらよいのだろうか。「ニューヨークよ、汝わが玩具たるをやめよ!」と見得を切るが早いか、いつものラム酒(ジャマイカ産)をあおる口調で亜鉛ジュースを喰らう。剥離しかけのラベルには「logis omnis」と読めるがこの銘は、万人の館ということ?、それとも全館あげてのセール? 己って汚い? やがて焦点がボケてくるのだが、これが結果として、傍観者の視線の存在を気づかせることにもなる。Smiled jawbone unto a fading peasant.(アゴ骨の消え入る民にほゝえみて。)

姉を訪ねての旅行先で通りかかった民家の軒先でふとのぞき込む居間。台所ではない、本当に居間なのだ。そこにまな板が置かれいて(なぜなら台所のほうには銀のベンツが鎮座ましましているから)、その上に、くわしい学名はわからないがこの地方では「船乗りの置き土産」と呼ばれるある水産動物が、ただでさえ複雑な形状にいまや決定的な変更が生じつつある。誰だって解剖に胸ときめかせた幼年時代をいまだ失わずにいるものと信ずる。そうでなくとも息をのむ瞬間ではないか。ようやく剥離しはじめた自らの油脂成分に対してこの生物、辞世の句をもう一ひねりするゆるしを乞う余裕があるなんて。なかなか見上げたものだな、と感じ入る自分をもその一部に含むパースペクティヴ。一方、こんな安っぽい情景にいくばくかのリアリティーが感じられるなんて、だまされたらおしまいだぞと自戒の念をあらたにする自分がある。こちらの「自分」だが、もとの名前はそのままでいまや、いっぱしの鳥として飛び去るべく羽を暖めているところなのだ。

これを手に忍ばせて。北より一本の砂利道をたどってゆくとやがて長方形の畑にいたる。畑全体に西より一条の川が注いでいる。一級河川。童(わらわ)はをるか? 畑には付属の廃園がある。かすかに返事が聞こえる。水面には月が映る一方、廃園の古びた鉄門を足早に過ぎゆくものがある。そのまま地下はるか深くまで沈んでゆくのが、偽の太陽王がお忍びで外出するときの水陸両用防弾黒塗りベンツであると知らぬ者はない。カモフラージュのためにだろうか、数分のインターバルをこそ置くが、それにしてもわざわざ追っかけてまでして女がその車両のフロントガラスのうえにくつろぐ。弾丸よけを買って出る感心な女。つい助手席の王も見入る。衣がちょっとズレているが偽の王はこの位のことは気にとめない。女よ、行動あるのみだ。まっさらな頁が開く。魚女(うおのめ)はそのままの姿勢で方々に市が立つのを見る。山もなければ谷もない峡谷。この地では木々といっても決して実を結ぶことはない。両側の向かい合った戸口の間で人々がささやきを交わす。偽の王にあっては、目玉と赦しとは等価なのだ。

それが此処に在るとはすなわち、自分はいまや解放された気分であることを意味する。対岸の大船観音を正確に見据える位置に建立された大聖堂。ライバル意識のあらわれ? その大聖堂の脇の斜面を徒歩で降りてゆく。木々のしげる秋の下山風景。トンネルを、水を目指して。仲間たちもいる。たのしいじゃない? 唯一ゆるし難く思われるのは、自分が全く優先されないこと。なーに、よくあることじゃない、と姉(ほかならぬ大船観音のモデルがこの姉なのではないか)はなぐさめてくれるけれども。連続して2時間32分(202分)かみつづけられるというガム(実測値)。一見「大型特殊初心者マーク」はたまた「近藤さん(?)」風のこの三角ガム。それが此処に在るとはすなわち、イヤな日々の永久に去りしことを意味する。四色あるのが互い違いに並んで透明なパッケージ(シールにはご自慢の耐久時間に加えてさらに、当店は糖分はおろか、油脂成分も樹脂成分も一切使用しておりませんと大見得を切る店主のマンガが描かれている)に収められている三角ガム。それを姉は、仰向けに上半身を起こしかけた自分の、あろうことか股間のところにパッケージごと置いてくれる。早く居間で靴を脱ぎたいよー!とだだをこねる自分に、まだまだバス旅行(それが此処に在るとはすなわち、世の信用の増すばかりであることを意味する!)は続くであろう、と幌の修復に呼ばれた誰だかの叔父は冷たく言い放つ。幌の修復というのは、複数あるベンツ社のうちのどれかが製造したのであろうこのバス、長距離用に屋根が開くようにできているのだが、それが連日の雨で機能しなくなってしまったのだ。

宝塚時代(というのと室町時代というのはあんまり差がないけれども、これと宝塚ファン時代とでは大違いですね先生) の自分の網タイツ姿(やはり国に帰ることにした、「親とか嫌いじゃないし」と言い残して、その姉から譲り受けたクラックだらけの網タイツ、石油化学工業の世界では油脂成分をナフサから採ることになっているがこのナフサというのがまっ黒なのだ、したがってタイツもまっ黒である)なんて、悪趣味にも程がある。その自分がファン業が高じていまや大ファンになってしまったのが、‥‥読者よゆるし給え!、ヨーロッパの交通網には二種類の「ハブ」があって、一般の観光旅行客によく知られているのは、どのガイドにもいまどき横並びで全く同じことが書いてあるからあえてここでは紹介すまい。問題は快楽を追い求める者たちの、また快楽の対象となる「商品」の中継基地として名高いこの場所。否、どことは言うまい、読者は知っている、ただそこの場末の某娯楽施設(公共の家との説もあるが、本当のところは某自動車メーカーの「リクリエーション施設」らしい)に奉仕する元宝塚スターたちのなれの果て。これが目下の自分の関心事なのだ。「何とか様式」の柱が一本つっ立っている以外はとくに見るべきもののない大ホール。椅子もなければほかに客もいやしない。給仕さえいないのが気にならないでもないが、姉の家の居間の床の絨毯の色がこんな風だったろうか。あえて何色かと問われると言葉を失うが、姉ならこれを深紅と呼んだであろう。待ち合わせの場所に行ってはみたけれども予期せぬ光線の散逸に肝心の自分が錯乱してしまい、空間の認識が歪みまくって、結局姉には会えなかった。してみると、リアリティーのあるなしは照明の優劣にのみ依存しているのだ。どこかで読んだけどたぶんそうなのだろう、だって汗くさいじゃないか。近づくとこれが異様なのだ。人柱、それもトップレスダンサーからなる人柱。ダンサーたちは天井にまであふれている。他人事ながら、どうやって貼っ付いているんだろうか。柱のたもとには「知恵の木」と読める。はみ出た枝にホオジロが一羽。たしかに、禁断の果実が多数、朝露にたなびいている。

ベンツの中での生活も大分軌道に乗ってきた。自宅前に路駐するんだから誰にも文句はあるまい。こうして威嚇しておかないと、いつ日本製のダンプカーでつっこまれるかわからないから。力と力のぶつかり合いなのだ。まったくこの「生活」とはどのようなものであろうかと考えをめぐらす前に、近所のあのガキだけはいっつも「駐禁だよ」と言いたげな渋顔で通り過ぎて行くけれども、放っておけ、やがてイヌどもの足元にひれ伏す日が来るであろうから。それまでここを動いてはならない。目と鼻の先の薬局通いも仕方ない、たまには歩いていくか。あるいはこの「生活」とやらが空間の認識にまで変更をせまる種類のものであったとして、薬物の話ではない、認識論をあなたはご存知ないか!(内容の特殊性にかんがみ、若干の専門用語を使うことをおゆるしいただきたい)、ベンツの車内がいまの自分にとって一体何なのか。船着場での生活が観光旅行でないことくらい先刻承知している。同様に、車窓に映るものもさっきからすべて真実なのだ。こころみに姉をしてそのふるえる薬指を車窓に走らせてみるがよい。柏の木がそびえているのが見える、見えてしまう自分が不思議でならないとつぶやく姉。冷静な割には顔面蒼白。いまや頬とて例外ではない。だが油脂成分の転写(蒸着)対象はあくまで冷えたガラスの表面でしかないことを、これは近所のあのガキにも言っておきたい、リアリティーの一部として受け入れないわけにはいくまい。

『これの先には場所があり、中には自分がある』と銘打たれた軍隊の勧誘ポスターを論ぜよとのお達しであるが、インクの発色なぞは印刷屋に任せておけばよい。黒主体の配色にすると手の油脂成分が気になる、もっとも、一体どこの誰がポスターを文字通り「手に」するであろうか。勧誘ポスターなのだから。むしろ問題にすべきは、こんなところにきれいなお姉さんを動員せずにはいられない軍の台所事情、さらには体質とでもいったものであろう。入所した早速その晩から、きれいなお姉さんなんかどこにもいやしないさ。早速繰り広げられる「ちょっと待てよ」の世界。これが動かしようのないリアリティーというものなのだ、と認めてしまうもよし。服従が秩序を、秩序が力を生むのだと適当な屁理屈をこねてみたり。 あるいは、 ゆるしも得ずにただ靴下二足のみを手に外出するのだ。 小雨のなかを地下鉄の駅へ。 無人の改札に「たったの一五○円! 五○円玉×3!」の貼り紙。遠慮がちながらこれは、切符ぐらい買え、くだらんキセルなんかし給うな、の意味であろうか。こうして出発を待つ戦闘機パイロット二名、当然ともに男。男二名で行動させる作戦の発案者をこそ、本来なら法廷に引きずり出さなくてはならぬと言いたいところだが、今回に限ってこの「作戦」とやらは失敗に終わるのだ。あらかじめ行われる反省会から明日への活力が生まれるとしたら大したものだが、少なくともケツ(ass)に活力がみなぎるとの報告はある。ある種の体罰であろうか。失敗というのは、墜落時に少なくとも、当時少尉であった「主」のほうが発狂するのだ。その後の消息は信用問題にかかわるから公表すべきではない。この判断も含めて全て極秘だ。正気のまま生還した「副」は現在退官しているが、彼によると元少尉の最期とは次のごときものであったという。制御不能とわかるや少尉は振り向いてこう言う、「君の祝福が欲しい。なぜって、いま自分に娘が生まれたのだ。75年2月4日という今日この日を永遠ならしむるためにも! まだもののわからぬこの子(仮にフナちゃんと呼ぼう)に代わって君が証人となってくれ、私の全財産はこの子のものだ。いうまでもなく、君、この件は証人としての君に打ち明けるのであって、ここで私利私欲をむき出しにしてはならないよ、 いいか、 居間のリプトン缶(オレンジペコー)のなかに、このことは姉にも内緒なのだが、そこにわがご自慢の練馬三三ナンバーのベンツのキーが隠してある。財産をさがしに行くのにリアカーでは心細かろう。唯一心残りなのは姉だ。『大事にしていたホオジロちゃんが病気でどんどん縮んでゆく。このままだと、誕生日を待たずして天使の卵になってしまうのだろうか!』などと嘆き悲しむ姿が‥‥」 こう言い終え、前に向き直った彼は、たった今言った内容に相当するある「犯罪」を犯したのち、その行為がもとで意識を失う。薄汚れたうさんくさいパブに於けるまったく低俗きわまるどんちゃん騒ぎにこの少尉の姿が見られる。オージービーフの食べ放題と言えば聞こえは良いが、何のことはない、部隊名を再確認するまでもなくこの部屋の構造が既に、残飯処理班のために特別に設計された正四面体の部屋なのだから。三角部屋で居眠りをすると、そこから抜け出そうにも、必ず最後に三辺のいずれかに発見され、三つの辺に包囲され、一人あえなく降参する悪夢を見るというが、この正四面体も単純作業の集中力アップには最適との評判で、民生分野への転用の許可申請にも近頃では二年三年かかるのがあたりまえなんですよ、まったく、とぼやく声がそこかしこに聞かれる。そのぼやき男、海賊版のカセットを手に卑猥な笑みもあらたに少尉のほうに近づいてくる。すかさず「あ、それ知ってる!」などと心にもないことを言ってしまう。これっきり少尉の意識は二度と戻ることがなかった。なお問題の75年2月4日であるが、少尉の妻の戸籍記載の生年月日と正確に一致するという。

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Composed 10-23 September 1996

中野隆行
Takayuki Nakano
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