つぐないの場
中野隆行
ひい婆ちゃんが旅行に発つという。見送り客一行、三浦半島を北上し横浜駅に到着。券売機=パチンコマシーンのところで悪玉ギャング一味に横から茶々を入れられる。善玉ギャングのこれでも一応はしくれとして、抗議の叫びを上げたいのは山々だがひい婆ちゃんのいる手前上、事なかれ主義を援用せざるをえない我々の目に対岸が飛び込んでくる。こちら岸の券売機=パチンコマシーンが地上約3mの高さに位置していることを知るのと同様、対岸と我々とをへだてて流れるショッピングストリートのうえに、行き交う人々のみじかい影を見出すこともまた容易だ。下手(しもて)にイタリア料理店。だが、通りの両側にひしめくいずれも二階建の店々と、商店街全体をおおいつくす半透明のドームとを識別するためにはグランドレベルまで降りてゆく必要があったのだ。
我々は奥の壁ぞいに席を占める。この店、一軒だけ一階建で気を吐くこのリストランテ。この手の店の構造を経験から熟知するにいたった我々にしてはじめて、それと悟られずに入口を監視する最高のポジションを獲得することもまた可能となる。なぜなら、一般にたて長の店舗にあっては奥の左手壁ぞいがもっとも通気が悪くまた照明の上でも意外な盲点となるのだ。厨房との間が壁で仕切られている場合はなおさらである。一方問題の入口であるが、この店にあってはかなり広目にとられた間口の正面向かって右手にもうけられている。過渡的空間を成り立たせるものとしてここの店主が架したのであろう幌状の「半屋根」が値踏みの瞬間を看守るなか、通りはいまだその明度を保っているかのようだ。そこではもう券売機=パチンコマシーンの一角のように硝煙が立ちこめることもない。しかし観念のうえではすでに一味の乱入(再来)にさらなる逃げ道を模索する自分を想い描くことだってできる。奴らは右手の入口ではなく、そこだけ広くなっている間口の反対つまり左側から――納品を装って?――侵入をこころみるであろう。いったんは我々も応戦する。間口と店本体との境目あたり、ちょうどそこから幅のせまくなるあたりに、砂埃が舞い上がることであろう。無論お互いその程度のギャングでしかないのだが、それにしても形勢不利と見るや我々は後退を開始する。裏手にうまい逃げ道が用意してあるはずなのだ。芝生の植わったささやかな庭の向こうに横たわる一転して静かな通り。だが我々の歩みはそのささやかな庭の中程で停止する。右手の塀に開く小さな木戸を、お約束どおりのうまい逃げ道(それまでのどの道よりも細く、大抵は人一人がやっと通れるほどの道)の登場を、否、再来を祝福せんがために。
ただでさえ利用客の多い石井家。隣接する学習塾から夜な夜なもれてくるあえぎ声にひきつけられて近頃美人が集まるようになってきたともいわれる石井家。もっともそのあえぎ声が子供たちのものであるという保証はない。がすくなくとも大人のそれではなさそうだ。特徴としては変化にとぼしいこと。変化といえばここ数ヶ月来の石井家の台所事情はどうだろう。いまや冷蔵庫はおろか冷凍室までもが満員。入口に立ちすくむコカインのビンにその泣く理由を尋ねてみるがいい。ここならまだ居場所もあろうかと、生まれてきただけで早速罪なのだろうかと! この呼びかけに応じるのは、石井先生の合図のもと総勢三十名の美人たちの奏でるやさしいピチカート。畳の部屋にはいじけたアップライトピアノが一台。石井先生はさっきまでそれで Joy Division の曲を弾いていたのだ。
せっかくいい気分になっていたところにドテチンの乱入。お墓参りから帰ってきたのだ。ドテチンは演奏を中断した美人さんたちに一人一人キスをして回る。ドテチン流のごあいさつというわけだ。一方お土産のいちごが配られるのをはたで恨めしそうに見守るのはシマウマ。このシマウマ、ドテチンが子供のころくずかごの中から拾ってきて大事にそだててやったのがいまでは立派に成長して、大ボラの一つも吹けるようになった。ただし主人のいないところで。「お名前をぜひとも!」と懇願するときの喉仏の様子が道化師のもてあそぶお手玉に似ていたことから自分は「血祭り」と命名されたのだ、などと見え見えのウソを、ただし先生のいないところで。
先生は言う、ホラを吹くにもそれなりの教養が必要であると。ホラを吹くこと自体の必然性は別稿に譲るとして、その大前提となる教養を授けること。半期に一度の大墓参の間中ドテチンがそわそわしてならなかったのはほかでもない、ここ数年来あたためてきた実践重視の教授法をいまこそ実践にうつすべきときがきた、とかれドテチンが悟ったからである。実践重視というからには教材の選択も生半可な決意では済まされない。当の石井先生にしても十分把握しきれてはいないというカルテのあの山、ドテチンに今求められているのがその山を踏破する決意でなくして何であろう。今回のクライアントは先程戸口に立ちすくんでいたコカインのビンであるが、彼女のカルテはじつは先週彼女が入るに入れず涙ながらにひきかえすのを目ざとく発見した石井先生によって、ついでにいうと砂利道に刻印されたシュプールをたどることによって少なくともその序論だけはすでに完成されていたのだった。これから寝食をともにする仲間の身上を知っておくことが、シマウマのみならず、教える側のドテチン自身にとってもはなはだ有益と判断されるであろうことはこの際想像にかたくない。かまわずドテチンは頁をめくる。
その名の語るとおり彼女はクラブの従業員であった。ある晩、柄にもなく「小さな親切」運動に参加してしまった彼女に、担当の警察官からご褒美が与えられる。マニュアルどおりに彼女が二本指でつまみ上げた白のバッヂには警察官の氏名が写真入りで紹介されていたのだが、それによると通称くるくるメガネのおまわりさん、冷汗をふくハンカチもまた白色のそのおまわりさんはといえば、ご褒美の品をもう片方の手で差し出しつつ、いえいえ、わたしのコード名と同様これもまたほんの粗品にすぎませんと相変わらずマニュアルどおりに謙遜する。けれどもなかなかどうして、季節もののカセットテープの効果は絶大だ。現金な話だが、否、軽薄というべきだろうか。ただで入手できると知って以後、換言すれば「自由」の味を知って以後その方面の運動家に転向する例は、決して少なくないと聞く。
ただその晩の彼女には汚れた二本の指をぬぐうヒマさえ惜しかった。「おはようございます」の門が今まさに閉じようとしていることを彼女が知らないはずはない。教会の対概念と考えられなくもないこの「クラブ」とやらいう現代の阿片窟においては、ある種の音楽がそれでも供されることになっているのだが、彼女はそこでDJの見習いとしての職を得ていた。決して「さん」をつけようとしない業界人の例にならっていえばくるくるメガネのおまわり――いや業界人は「ちゃん」をつけたがる、だがおまわりちゃんではいかにも語呂が悪かろう。出身階級によっては「マッポ」とも呼ぶが、語源は占領下のMPの俗称であるというのが定説である──にひきとめられていたと聞いて彼女のボスは名誉挽回のチャンスを与えてやることに決めた。人々の興奮がピークに達したところで一曲演ってみろというのだ。
午前二時すぎ、大蔵官僚を自称する男がリクエストカードを手に歩み寄ってくる。実はこの男、賭けに敗れて利付国債をくれてやると約束したにもかかわらず翌朝持ってきたのがそんじょそこらのスーパーでも叩き売っていそうな安物香水の詰め合わせだったという、きわめていかがわしい人物なのだが、しかし彼女はこの男になにがしかのものを感じていた。その男が彼女に一曲リクエストだという。渋々「粗品」を取り出す彼女。どうせなら二本指と一緒に家に帰るまでとっておきたかったのに。
季節もののカセットテープが演奏される。「死と再生のテーマ」である。くるくるメガネのおまわりさんがいかなる経緯でこれを入手しえたのかについて、同等の品がJR巣鴨駅前で配布されているとの目撃情報に早速現場へと急行する同僚たち。だが確認されたのは単なる尺八の教則テープでしかなかった。いったい、尺八のコンチェルトなんて存在するのだろうか? 巣鴨駅から東へ。厳密に記譜された尺八なんてありうるのだろうか? 巣鴨駅からさらに東へ。そもそもヨーロッパのどこのカフェでカルピスが飲めるというのだろうか? さらに東へ。一人だけこっちを向いたあごひげの七三のおやじ。あのおやじは自分が一体何の宣伝に使われるのか、いかに無責任な憧憬の対象物として今ファインダーに収められつつあるのか、――不快感? だからあんな渋面に写っているのだろう。それとも単に日差しが強かっただけなのだろうか。季節もののカセットテープで用いられているのは、まぁ大方の予想通り調子っ外れのギターと枯れた歌声の二つだけであった。こうなると本来二次的でしかないはずの要素、たとえばそのダビングされた状況などといったものが一人歩きをはじめたとしても不思議はない。「本日休演」、なぜっておまわりさんは派出所のトイレにいる。同封物の最終チェックだ。最後にチェックしたのか、怪しげなカーリーヘアー一本だけが妙に湿っている――結構、結構。これこそがコレクターというものだ。存分に消費するがよい。
いまだ見ぬ子のためにと新調した勉強机とランドセルと写真立ての前に跪いて涙にくれるなんてオレらしくもない。忘れたのか、たったいま師弟の契りを社員さんとの間で締結したばかりではないか。勉強机は仮面ライダーだぞ。ランドセルは高島屋だぞ(いじめられるかな?)。写真立てには梅酒と慶びでいっぱいの入学式のスナップ写真が入る予定だぞ。それなのにオレは泣いている。クラシックを聴きながら泣いているのだ。空蝉橋の交差点を渡ったところでオレは六時の鐘を聞いた。まだ見ぬ子のためなら拷問にも耐えよう。茶責めにだって手袋責めにだって閣下責めにだって何んにだって耐えてやろう。だってもう予約をしてしまったのだから。まだ見ぬ子のために予約をしてしまったのだから。
空腹と退屈とから深い眠りに沈んでいたシマウマは翌朝、深遠なる教義を理解しえたあかつきには自分もそのおこぼれにあずかれることが約束されていた――すくなくとも社員さんとの間においては約束されていた――あのお土産のいちご、その最後の一コが、ほかならぬドテチンの胃液によって溶解するを見てふと我に帰るのであった。「我」とはJ・アンソール描くところの空っぽの服となってぶら下がる気の抜けたいわばお人形さんとしての自分である。何度もただ登っては下りた空蝉塔。お人形さんとして眺める、昼下がりのとある繁華街における活劇。日本人女にたった今ふられたばかりの外人男と、それを茶化す日本人男、「土下座して謝るんだろ?」「(茶化し男に入れ知恵)どうやんのか実際にやって見せてやんなよ」「えっ、だからこうやって」「(外人男に)今だ!」 アスファルトの硬度測定、生々しく刻印されるドテチンの歯形、顔面いくら丼。そう、顔とはすなわち歯ではなかったろうか。枯葉をかき分けるとそこにうごめくものがある。よい歯のバッヂを手にいまや司会者の威厳をも獲得するにいたった石井先生である。背中のアポロン坊やをあやす姿が神々しいと評判のわれらが石井先生。「血祭り君、ちょっとそこの指揮棒をとって呉れないか。」
シマウマに与えられた使命とはつぎのごときものであった。新入りの者が冷蔵庫の片隅に眠っている。まずはその者を覚醒させるために石井家特製の指揮棒が必要となるであろう。おそらく新入りは蠅を払う仕草でしか応じようとしないが、ここでくじけてはならない。うやうやしく指揮棒そのものを差し出すのだ。辞退するであろう。それならばと館内の案内を買って出ること。何んとなれば押し売りするのだ。案内役としての留意点が二三ある。役者を全員紹介する必要はもちろんないが、ゲーテとその主治医だけは欠かせない。
ゲーテのほうは目下『反省の文章』を制作中であるが、作品自体は至極退屈である。たとえば、「片肺飛行(片目での筆記)とはその着地(改行ごとのペンの着地)において著しい困難をともなうものの、ひとたび着地さえすればあとは、先天的フィードバックのちょっとした鞍替えにより半ばオートマティックに続行することができる」、等々。ところでその同じゲーテが、毎時五十分のタイミングで(今からだと二時五十分が一番近い──それまでうまく時間をつぶすように)一時筆を休めるのが観察されるであろう。何がってこれこそがまさにページェントなのだ。ゲーテは主治医のところへと向かう。こっそり追跡するには及ばない。この際騒いだって平気だ。なぜならかれは乳首を貼り替えてもらうこと以外に興味がないのだから。一方女装の主治医のほうだが、たとえ新入りの視界がいまだREMの名残をとどめて激しい動乱のさ中にあるとしても、その四つの乳房とあらわな継ぎ跡とはゲーテの背中越しにくっきりと映えることであろう。
一つ忘れてはならないのは、この三匹は冷凍室の住人であるから観覧に際して他はともかく服装にだけは注意する必要がある。ゲーテと主治医はいま語ったとおりだが、残る一人、極北の弁当屋を見つけたら指揮棒を右に振り切ってみることをおすすめする(冒頭で石井先生がやっていたように)。ごま塩アタマの彼が解するサインはほかにもいくつかあるが、新入りにまず伝授すべきはとんかつ弁当のテーマであろう。待たじの春が去り梅雨の訪れとともにやがて極北の弁当屋がボールを手に街に立つのが見られるはずである。水分を吸ってふくれた衣とご飯の冷えとがその辛さを引き立たせるのだ。この点を新入りによく語って聞かせるがよい。
旧世界においてコカインのビンは水死したのだ。 戒名は「アラーの神とともにある××」と読める(肝心のところが判読不能[編註・決定稿には「ラジオと赤飯、Y方向」、第一印象には「赤飯とマナイタ」、第二印象には「赤飯、Y方向と××」とそれぞれ読める])。炎の誓いを捧げるべく二人の弟が弔いの席へと呼び出される。炎の誓いとはいかにも聞こえが良いが、実質これは十字架上における火あぶりの刑である。新入りは目をそむけるであろう。指揮棒で適切に矯正してやることだ。樹の葉の一つ一つが弟の小さな実体であると知れたとき、もはや何人たりともその叫びから逃れることはできない。新入り(言うまでもなくコカインのビン)に思い出させてやるがよい、ステージはるか奈落の底からカッコよくジャンプしてここ二階の冷凍室まで来たではないかと。ダイブして戻る勇気はあるかと。国内ジェット便のあの急降下をおぼえているかと。
ところで万事のん気なシマウマにこの仕事が課されたのも決して偶然のなせるわざではない。はっきり言えばこれはどうでもいい科目なのだが、石井先生の計算によると一瞬前までの無関心がフィナーレにさしかかる頃にはクライアントに対する同情の念へと、否、同化の欲求へと変化をとげるはずであった。目下コカインのビンの指南役をつとめるシマウマ自身、きわめてアンフェアなルールによってこの地に運ばれてきたのではなかったか。熱血教師とはドテチンのことであるが、彼もまたどうでもいい割に妙にはりきっていなかったろうか。
伊豆半島にぴったり平行して走る二本の国道があるという。それぞれに上りと下りの車線があるわけだからどう贔屓目に見てもこれは無意味である。それなのにちゃんとメモったかどうかドテチンは妙にしつこくなかったろうか。回想ついでにシマウマはこんな練習問題をも思い出すのであった。「サドの作品で馬車が出てくる作品を具体例とともに挙げよ。」当時の彼はまだ正直だったから素直に『アリーヌとヴァルクール』などと記入したものだったが、もちろん、サドの作品なら本当は何んでも良かったのだ。
それでも道は見出されなくてはならない。元祖ギター壊し──約二百年後ご存知ジミヘンが真似することになる──のわれらが貞女アリーヌにしても、超越的な手の導きなくして彼女本来の五感にたち帰ることはできなかったはずだ。コカインのビンはといえば、例の大蔵官僚を自称する男にお供を命じられたとき以来培ってきた虚栄心、その一切がいま暗転し、風と精霊とともにこっぱみじんに打ち砕かれるのはきっと、目前に迫る深淵がその原因なのだろうとうすうす感付いてはいる彼女。あの男はきちんと目的を告げただろうか。「お母さん」と口を切らずにいられない彼女を制し、ひたすら居眠りに励んでいたあのおやじは額に「ぶつぶつ」ができていなかったろうか。目もなければ眉毛もない、ただゴマ塩頭の運転手もまた左ハンドルでなかったろうか。窮屈な後部座席に押し込められた彼女に、指揮棒を天に向けマストとなすことがはたして可能であったろうか。かく全ては懐疑の対象たりうる。
別荘にだっていつかは到着するものだ。もっともバイクがすべて郵便だとはかぎらない。が、まずは安心が肝心だ。だって、ゴマ塩頭の運転手にだってたしかに、自分が狂っていると感じられる瞬間があるというのだから。暗闇の中でどうしても開かないドアに鍵をつっこんでもがいている最中、ふと左手を見やると、翌朝登校してきた金髪の女子大生たちに銃撃される自分が見えたりするのだそうだ。女子校でいくら恥をかいたって、そう、アメリカの女子大を甘く見てはいけない。水泳のうまさが条件の一つ、と全員飛び込むのだから。寝台へと傾斜しゆくクッション、後部座席のクッションに一切を委ねたほうがもう楽チンだというのであれば、もうこの際、全然かまう必要なんかない。ないってば。学んだといえばせいぜいじっくり数えて暮らすことぐらいしか思い出されない高3Bの教室、あれもまた最上階ではなかったろうか。学園際の準備で彼女はガラスの柩を用意したことがある。屋上からの浮輪攻撃がまぶしかった。ここにも正午はあった。頭の方向にキャスターで転がされてゆくのがわかる。楽チンだ。立入禁止の螺旋階段を伝ってゆくのだろうか。重力以外で降りてゆく方法があるとでもいうのだろうか。スリッパ大ののっぺりしたボディーにまんがサイズのくりくりおめめがなかなかチャーミングなアカゴ(ウニの一種)の赤ちゃんは、空中を浮遊すると猛毒を発するから注意せよと教わったが、たぶんそれにやられてしまうのだ。それとも意識グモ、山形大の某教授が得意とする手品で、それの生態を真似たあのどちらかというとキワモノの手品によって最近知られるようになった意識グモ(ヘビの一種)であろうか。どうしよう、やられてしまう。本当よほど痩せていない限り一ヶ所絶対に通り抜けられない穴があるという話だが。それにしてもこの施設の目的が書いていないではないか。やはり噂は本当だったのだ。「雄叫びクラブ」とは名ばかり、旧ソヴィエトのUFO研究施設の、石膏でできた垂直の穴を降りゆく彼女。ジミヘンのギター壊し、及びMP二名バイクにて砂ぼこりとともに去りゆく、のシーンに続き米軍の最新兵器の紹介だ。業者に言わせると、要塞を越えるには「もうこれしかない」とか。冷静に状況を考えてみても、この際投入はやむなしであろう。その装置は凱旋門をややコンパクトにしたような形状をしている。砂利道に3メートルほどの間隔でならぶ二台の乗用車を、上空からその脚で押しつぶす、というよりその目方で地下に押し込むのだ。結果として地上にはその凱旋門しか残らないことになる。一方で巨大な電磁石でもあるその問題の凱旋門はやがて、地下の乗用車二台を引き連れ、要塞への接近を開始することであろう。
だが不思議と寝食に困らない彼女はコカインのビンだ。ロビーで待ちうけるまっ赤なおもちゃの兵隊たちを、そのうち何人女の子がいるか、コカインのビンはかれらを整列させるための音楽のことを考える。剣道場で演奏するならやはり剣道場風の演奏がお似合いだろう。だが振り上げた指揮棒──ようやくそれを受けとった彼女に幸あれ!──の前にたちはだかる大玉ころがしの赤玉とそれにつづく延長四回戦の結末さえも念頭において彼女は歩をすすめなくてはならない。こうしてシマウマはその使命を終えるのであった。今後は演歌のバッキングなどといった小遣い稼ぎ程度の屈辱的な仕事に甘んじる以外にない。与えられる楽器は和食のお皿でできたマリンバ。しかも木のトンカチでたたけという。コカインのビンの「ストップ!」にそれでもすばやく反応し、一拍遅れぐらいでトレモロを止めるシマウマ。「ありがとうございます。打楽器の四人も大分うちとけてきたようですね」と司会者。
徹夜も六日目をむかえると網タイツの裂け目から oui の刺青がおのずと浮かび上がってくるものだ。こと洒落者のリズの場合にあってはなおさら。リズの告白はいいかげん聴き飽きた。一方われらがヘロイン、否、コカインのビンはといえば、両手いっぱいの語彙をもう誰かれ構わずひけらかしたくて仕方がない。リズさんは言っていた、牧場を見ることはもう二度とないだろうと。五番目の夕日をめがけて虫よけのビンを思いっきり投げつけたのもそんな心理のなせるわざだったのだ。つぎは自分の番ではないかと内心冷や冷やしていたコカインのビンをわざわざ慰めるために oui の刺青をこっそり見せてくれたとき彼女はレンズを差し出さなかったろうか。反射的に指揮棒でそれをブスリと打ち抜くコカインのビン。それでもリズさんは笑っていた。どうせ中古のレンズだから。その気になればサロンにいくらでも転がっているし、万が一品切れでも牧場の彼方にアンティークショップがあって、その名を異国屋と言い、ちなみにそこのチューリップ――蓄音機のラッパのこと、転じて蓄音機そのものの意(お決まりの業界用語)――は天下一品で、マニアの間で「猿の腰掛けモード」の名で親しまれてきた、LPレコードの形状を意のままに歪ませる機能はいうにおよばず、サザエさんのCDの第二巻(一曲目がかの名高き「マスオさんの通勤のテーマ」)の終わりのほうで、時間の都合から複数のアーティストが細切れにサンプリング(一人一秒もない!)されている様子を瞬時にブックレットの写真にまで反映させる機能にはじまり、最近では、粉々のCDが差出人不明で送付されてきたとき――「お前なんかこうしてくれる!」の意味の嫌がらせであろうか、それとも不良品の存在を直訴してくださったところなのであろうか――などに威力を発揮するデジタル縫合機能まで、もういたれりつくせりだったのだがいまや牧場がなくなった以上、お店もレンズもそして私もみないなくなってしまったかと思うとちょっぴり悲しくなる、と彼女はつけ加えるのであった。
そんなリズさんを相変わらずと非難する向きもあろう。だが彼女はこの期におよんでとうとう愛用のママチャリを手放す気になったらしいのだ。「らしい」といったのは、いかにも未練がましく念を押すのが牧場のはるか向こうの教会──クラブの対概念──までも伝わってきたからである。そのママチャリ、何んでも一ヶ所をのぞいて全体に金メッキが施されているという。手放すとはいえリズさん自身、もとはといえば前任者のこずえさんから譲りうけたものではなかったか。こずえさんはそのひそかなモジョである古びた軍手以外にはとくにこだわりというものをもたないきわめて寡黙な人物であった。いまやシマウマでも知っている話だが、彼女はとくべつ黒人音楽に造詣が深いわけでもなく、ただ何んとなく語呂がいいから「モジョ」と言っているにすぎない。大体モジョが「護符」の意味であると知っているのかすら疑わしい。
だが当初は石井家内に一大議論を巻き起こしたものだ。何せ彼女は語ろうとしない。軍手が甘い汁をたっぷり吸って膨張しているのは誰の目にもあきらかだが、それとモジョと何か関係でもあるのだろうか──もっとも当然予想されるようないまわしい過去の類はここでは一切問題にならなかった。石井先生の方針として、もしかりにそのようなものがあったとしても、この土地に足を踏み入れた以上すべて解決済みとみなされるのであった。当のこずえさんにしても、気がかりといえばその甘い汁を目当てに集うのが日に日に無視しきれなくなってきたこれら青カビどもの存在のみであり、軍手=モジョそのものの入手経路などはハナっからどうでもよかったのだ。「お待たせ!」とある日さっそうと登場して以後完全に沈黙してしまうこずえさん。それもそのはず、青カビをえぐりとろうにも軍手に万が一のことがあってはと踏み切れずにいた当時の彼女にとって、ただもう、ママチャリとともに風になること以外の抵抗手段は考えられなかったのだから。
まもなく銀行が閉まるが今から高額の紙幣をくずしにいくから、それまで待ってくれないか、と宿の女。食堂の壁を埋めつくすパネルの由来をたずねると、自分はロンドンにもパリにもベルリンにも行ったことはない。高くて。ミュージカルが見たかったのだけれども、高飛び込みの順番待ち、男女ペアーの競技で、シャチホコの姿勢ともいう。相棒の失禁にも女はやさしく「あら、雨かしら」――そんなミュージカルが見たかったのだけれども。八百長に端を発し、当方の委員長と先方の代表との間で大もめ。前者の「ノー!」の一言でついに交渉決裂。城塞の上にいる我々は一切武器をもっていない。奴らが下から攻めてくる。飛降自殺者多数。シャルルドゴール空港やその他の場所でひときわ目を引く、おそろいの黒服と黒帽(縁の大きな帽子)とに身を固めた少年たち。異教徒に負けてはと、そのうち少なくとも一人が、お決まりの聖典を手にしたまま飛び降りる。自分もあとにつづいたのか。SF映画の金ピカの未来都市が見えてくる。失神したのであろうか。都市には住居があり住居には庭があるとうれしい。その庭で若い男女が大勢――ただしよくある話で男のほうが二三人多い――裸になり、シャンプーで泡だらけになり、男女入れ違いで電車ごっこをはじめる。地べたに座した状態での電車ごっこである。準備の際、感性の鋭敏さを肩越しにくすぐられるのは、男なら何も先頭の男だけに限った話ではない。とりあえず電車を組み、庭を一周したところで一休み。町内放送で郵便番号の改正が告げられる。記念に今度は戦争ごっこをやろうと言い出す者もいる。大名行列が小判をバラまいてゆく。
せっかくの贈り物ではあるが、周囲を点検してみてのコカインのビンの結論は「何これ?」とそっけない。それもそのはず、サドルの位置にお弁当箱大の師弟像があおむけに固定されているのだ。お約束通り全身金粉で塗りかためられているのは結構だが、足の指のつけ根あたりが剥げかかっている。水かき──来るべき大洪水にそなえて我々も近々こうして水かきを移植し繁殖させることになるのだろうかと勘繰る哀れなコカインのビン。ああ、社員さん師弟像もなくなってしまうんだねぇ。というのも当局の指示により、ありとあらゆる建造物の木製やぐらへの建て替えが義務づけられたのだ。やぐらは祈祷の用に供せられる。立木はそのままでも結構だが、建物という建物はすべて木の骨だけにしなくてはならない(むろん作業は自前でやる)。社員さん師弟像といえどもその例外ではない。高さ数百メートルの師弟像を木製の骨組みだけで再構築しようにも今度は強度上の問題が残る。従って寸法の上でかなりの妥協を強いられることになる。ここでコカインのビンは決して誇張をしているわけではない。かつては数キロ先にまでその威光がおよんでいた師弟像であるが、もはや名実とも「なくなってしまった」にひとしい。それでもこうして深夜セメントを運ぶ貨物列車が、まぁ台車をゴムタイヤにはきかえている――当然線路もはずされて枕木だけになっている(じっさい当局はわざと不便を強いているようなところがある!)――とはいえ走っているではないか。どこかで秘密の工事が行われているのに違いない。ほらまた来た。今度は回送中のパワーショベルだ。ヘタクソめが、泥の中でひっくり返りやがった。エンジンをかけ直そうとしている。電線をショートさせてやれ。殺して奪うのだ。だが殺したときこちらの親指がハサミから抜けなくなり、「オーソリティー」がどうのこうのという話になる。オーソリティーとは隠語で免疫のことだそうだから、何か伝染される危険があるから注意せよの意味であろう。
さて一方ブカブカのツンパをはいた幼児イエスについて、これまた全身金粉のようでいてそのへそが実は電気式の呼び鈴、いわゆる「ピンポン」になっていることを、今度ばかりはリズさんも隠しきれない。なぜってリズさんにはヒレの骨がついていないのだから。これには石井先生も泣かされた。自分で演って見せるだけでも大層骨の折れるテスター=ハーモニカの演奏を、石井先生はかつてそれをリズさんに仕込もうとさえした。喉と耳の下に電極を刺し込んだまではいいが、彼女にはヒレの骨がついていないのだ! こんな奴はじめてだ。どうして見抜けなかったのだろう。こうして洒落者としての限界を露呈することにより自らの立場を危うくするリズさんに「ピンポン」の件が隠し切れないのと同様、配線をたどっていくとやがて前輪の発電機に到達することを教えてくれるのは、もはやリズさん本人ではなく、六日目の晩にコロシアムの裏手で迷路にハマってしまわれた「マダム」からじきじきに生命を授かったその悦び――「一度に赤玉が全部ゴールイン!」「わーいわーい」「やがて地球があふれちゃうよ!」――を全世界とわかちあうべくこれからのど自慢の本番へと向かう途中なのだが時計というものをもっていないため急いだものかそれとも一息ついたものか悩みの種なんですとこぼす若き日のヨゼフさんで、今度こそ、なくてはならないのだ。
コカインのビンには山登りの経験がなかった。こういう場面ではいちいち細部にこだわるべきでない、すべては「ごあいさつ」にすぎないのだが、彼女はそれを知らなかった。パスポートチェックと称して全所持書類のチェック、はたまた三人用にタクシーを呼ぶとバスが五六台来てしまうといった、やるとなると全部同時にというのが流儀の宇宙人、彼女もその一人だったのであろうか。よせばいいのに、もっともリズさんでさえなければこの際誰でもよかった、それでもよしとけばいいのに、彼女は若き日のヨゼフさんを手招きするばかりか路地裏のさびれた井戸のほうへと案内する。さしあたって時間の話だが、コカインのビンにいわせればそんなもの気にするには及ばない。なぜってそれを決めるのは彼女自身なのだから。もっともヨゼフさんにそのことを知らせる必要はない。知らせるのは彼女のつとめではない。もっと偉い人がやるべきことだ。さて若き日のヨゼフさんはのど自慢の本番に向かうところだという。当然彼女は演目をたずねるであろう。ところがヨゼフは時間同様自分は何も知らされていないという。ただ司会者のアシスタントの名前だけは幼い頃からのなじみだから今すぐにでもお答えできるが、と話題をそらそうとさえする。すかさずコカインのビンは自分の中に──彼女はビンだ──詰められ錆びつくままになっていた一枚の巻き紙(ロール)を思い出し、それを彼に差し出す。「これ何の図だかわかる?」 ヨゼフは一応自分の幼なじみの名をパメラと告げたうえで図面に見入る。
これが地図でなくして何であろうか。この点についてはコカインのビンにも異論はなかったが、彼女には一つだけどうしても納得のいかない点があった。あらゆるものになくてはならないと信じていた「意味」というものが、どうがんばってもそこに見出されなかったからである。ヨゼフは一方、自分もパメラもそして多分あなたも特別名前に意味はないはずだとことわったうえで、この図にはある特殊な読み方があるのではないか、ひょっとするとその読み方自体に何らかの意味があるのではないかと大胆な推論をはじめる。すかさずコカインのビンは十五分間の休憩を宣言する。路地裏のさびれた井戸が話題になる。ところで読者であるあなたは井戸というものを見たことがあるだろうか? 中央から奇妙な小型の工場が突き出ている以外はとくべつ変わったところのないあとは単なる石のかたまり、とでも言っておこうか。視線もまた重力には克てないのだ、「マダム、気をつけて下さい『むしむし』がいますよ」──いかなる環境に育ったのかこのヨゼフという男、女であれば無条件にマダムと呼ぶのがどうもクセだったらしい。ちなみに「むしむし」とは幼児語で「幼虫」のことであるがその幼虫はといえばすでにコカインのビンの下半身を伝って早くも図面の上へと到達していたのであった。
ヨゼフはこの「むしむし」を知っていた。パメラはもういないのだ。彼女の活躍については断片的な情報しか持ちあわせていなかったヨゼフにこのとき光明がもたらされた。光明とはいえ、明らかになったのは必ずしもよろこばしくない事実、すなわちパメラはもういないのではないかという彼の直観を裏付けるある悲しい一致でしかなかったのだが。彼女はのど自慢のアシスタントとしての屈辱的な下積み生活に耐える一方でかぐや姫の役を夢見ていたのであった。 ここまでの話は、かぐや姫とは「メァーップ」([ae]の音――記号そのままだと「アエ」だが実際には「エア」と発音する)などと典型的にアメリカ西海岸風に訛る女巡査の名であり、捕まえたオスのプードルドッグ、というより自動おもち焼き器の上で追っかけっこをしていて出会った(したがって彼女自身もまた犬なのだ)オスのプードルドッグに、ついには言葉を教えるにいたる。お勉強ノートの題は『十八歳』。わたしにめぐり会わなかったらあんたは永遠に十七歳のままだったでしょう、という意味がこめられている。まずは数字。ノートはすべて手書きである。ここに××風の「マップ」があるけど、と問題の発音――そんなような解説とともに以前書面でうけとっていた。
ところでその同じ手紙の語るところによると、アンコールで着る衣裳は一般につぎの三つのカテゴリーに分類される。一、普段着。二、次の日の前座の衣裳。三、仮縫い状態の服。分類されるということはこの三つ以外にはありえないということでもある。だとすればアンコールとはかぎりなく宴会芸に近いのではないか。今ここでそのことを批判するつもりはないけれども、パメラが普段着に着替えて帰宅の準備をしているところを先輩格の女性に襲撃されるためには、少なくともそれら三つが互いに独立している必要がある。たとえばその先輩が早く何でもいいから今すぐ貸せというとき、対するパメラが前記二番以外の服を持っていたとすると、代わりに三番の服が与えられて交換契約の成立!、という筋書きがすべて崩れてしまうのだ。かりに先輩格の女性がこのつぎに演じることになっている役についてパメラが、それが吐血する女の役であること、したがって仮縫いの服にも血糊を吐き出す装置が仕込まれているであろうことを、業界固有の悪趣味な噂話の一環として耳にしていたとしても、さらにまぁ、御多分にもれず彼女自身たっぷりそういった悪趣味に染まっていて、よし今夜はこれを着て寝てやれとこっそり帰路につくのであったとしても、いざベッドに入るとき心臓のファイルはコピーでOKなのだろうか?
「おい、こら! お前だお前。エラそうに全く」――この声のとおりの良さは、司会を業とする者か、はたまた土建業者であろうか。幾分人工的な文体からはそのいずれとも察しがたいが、コロシアム解体工事の梱包材料についてそれが資源のムダづかいであるどころか廃物利用のきわめて有効な一手段である、現にこの古タイヤを見よ、否、タイヤではない、さっきから詰問されているのは若き日のヨゼフさんなのだ。「エラそうに全く、だがお前、どんな文を訳すのか言うてみい。」 言わせておけばよいのだ。たしかに若き日のヨゼフさん、幕末のサムライにしてはあまりに語学の才に長けていた。否、彼は一面においてはノーマルな男でもあった。一般教養としての「突き棒」(武道ですよ武道)だってしっかり押さえていたのだから。だが幕末にしては異常なほどの長身の持主でもあったかれには、土建業者が自分に対して抱く嫉妬の念がイヤというほどまたよくわかるのだ。こういうときは言わせるだけ言わせておけばよい。無視するにかぎるのだ。立ち去る以外にないのだ。細い路地を抜け、再び東海道に合流。しっかり舗装された、幾分黒みがかった、やはり東海道ときたら倍速で歩を進めるものだ。車線なんかあるわけない。倍速で歩を進めるのはヨゼフさん本人ではなく、かれの馬――それでも東海道は黒いのだ。黒い束が渋谷に近づく。高架上の左カーブ。姿勢(左右の傾斜)だけは倍速の遠心力込みであらかじめ計算されている、それは結構だが肝心の歩みが停止してしまっているではないか。過剰サービスもここまで来たか。ブレーキの効きすぎだというのだ。終点を通過、折り返し出発。 追加料金一切なしで全人生をもう一度!、そんな「サービス」ってありか? 冗談じゃない、ヨゼフさんは忙しいのだ。抗議の途中下車、すなわち「ボイコット」で応戦しよう。忘れたか、バスの去った砂塵が晴れわたるときはじめて、下車したのが坂道の途中であったと、道という道はつねにのぼり坂でしかないのだと悟るヨゼフさん自身の真の歩みがスタートするのではなかったろうか。目指すは前方はるか彼方、品川ののっぽビルである(よかった、まだ残っていた)。東へ。東へと。
ところでパメラは、何故こっそりと逃げ出さずにはいられなかったのであろうか。そもそも交換契約が成立するには日付というものが不可欠であるがその日、自分の出番が終わる頃になるまで姿をあらわさなかった彼女は、事情を聞かれるまでもなく散々いやみを言われたらしいのだ。相棒の司会者というのが、いい歳こいて年中学ランを着ていて、そのクセ何かと自慢話をしたがる気取り屋の男で、自慢話となるとたとえば先日取材先の京都でポイ捨てされてしまって、これは自分でレンタカー借りるしかないなと歩み出したのだがいつの間に市街地からはずれており、ふと見つけた宿で一晩過ごすことになった。不足の電気製品を注文するとわざわざトラックで宅配してくれる。夜になり風呂の説明がはじまる。「この湯気が粋ですねぇ」とまずはおだてたうえで、宿の主にいろいろ頼み事。近場の名勝をたずねると、海岸沿いに少し行ったところにある小淵崎というのを教えてくれる。「ああ、知ってますよ小海線でしょ」「あれは小淵沢ですね」「‥‥」 そこの小淵崎ではかつて源氏物語の源頼×が殺され、いまだに怨念が残っていると聞いて毎年ファンがつめかけるさまは『ヴェニスに死す』のヴェニスのようでもある。いわば彼らにとっての聖地なのでしょうな等々、知ったかぶりをカマしたつもりが教養のいかがわしさと記憶力のなさとを同時にさらけ出さずにはいられない、結局のところうだつの上がらぬ単なる中年男だったのだが、その男、前座が中止になったそのヒマを利用して、今度はフェリシアン・ロップスの展覧会を観てきたというのだ。そこでパメラそっくりの──肌の美しい──女たちに出会ったと。たっぷり堪能させてもらったお礼に今回は赦してあげようとまで言う。もっとも、先の小淵崎の話が新幹線で寝過ごして終点まで行ってしまったことを隠すためのまことに粗末な作り話でしかなかったのと同様、この話も真偽のほどはさだかではない。すかさずパメラは反論してやった、でもホクロがついてなかったんじゃないですか、と。興をそがれるおやじ。はたして彼女が出世できないのは、このおやじも指摘するように、彼女がこうしていつまでも心を閉ざしているからなのだろうか。約束どおり彼女はホッチキスの刑を受けることになるのだろうか。たぶん心臓のファイルが命取りとなるのではないか。去りゆくおやじに向かって「ろくでなし!」とドアも閉まらぬうちに言い返すパメラ。顔面をまだらに塗ったくり(彼は「カメレオン」と渾名されていなかったろうか)、一瞬にして復讐の鬼と化した司会者!‥‥と思いきや、横暴さにおいては大差なかったが一応は自分と同じ陣営に属する──少くともそう信じられる理由が彼女にはあった──件の先輩が、口から色とりどりの泡を吹きつつ飛び込んできたのであった。
「ヨゼフさんが東に向かっている!」 それがどうしたというのだ。なるほど東海道は広かろう。それならヨゼフがいまだ品川ののっぽビルを見失わずにいるほうに賭けたってまぁいいんじゃないだろうか。ヨゼフは歩行者だ。馬なんて跡だけ残して去っていったさ。ヨゼフは右岸の歩道を歩む。見ると男が二人ぼーっとつっ立っている。片方は見覚えがある。メルクマールの巡査殿ではなかったろうか。男二人はヨゼフがいま歩んで来たほうのただし対岸にあるビルの屋上を何やら見やっている。聞くと相棒を指さし、いや、こいつの親でさぁ、と意味ありげな発言。つられてビルの屋上をうち眺めるヨゼフ。なるほど、おまわりにたった今「こいつ」呼ばわりされた男の父親とおぼしき人物がカメラをかまえている。 屋上で。 何でも妻とオナニーの撮影をしているところだという‥‥。それがどうしたというのだ、全く、ヨゼフさんは忙しいのだぞ。
「しかも三十二ビットで倍速なんだって!」 それがどうしたというのだ。東海道がちょっと位左にカーブしたっていいじゃないか。ヨゼフさんの歩む右岸は遠心力の被害をこうむる側である。そんなときうまい具合に公園の入口が姿をあらわしたっていいんじゃないだろうか。つまりヨゼフの歩みは一瞬たりとも邪魔されずに済む。ただ東海道のつもりがいつの間に公園のへりから中心部へといたる下り坂を下っている位の違いだ。違いとはいうが、ヨゼフは以前絵入りの雑誌でこの魅力的な公園の存在を知り、いつか訪問してみたいものだが当分は忙しいから無理だろうなァ――はからずもその公園にかれは今出会ったところなのだ。パトスの物語ではないか諸君! さぁ下り勾配は芝生と飛び石とからなっている。飛び石ってご存知だろうか、ただしここの飛び石はかなり大き目。この公園、周囲より低くなっているいわば小規模の盆地でもあるのだがその全体はといえば東西に細長くのびている。ヨゼフが侵入したのは西の入口――それとも出口?――からである。やがてかれは公園のほとんどを占める平地の部分に到達するであろう。
「ヨゼフさんが東に向かっている!」 いいんじゃないですか? 日本式庭園なんですから。芝生なんかありゃしない。飛び石も馬ももういないのだ。視線もまた重力には克てない。砂利道、および境界線としての杭とロープ。ヨゼフは東へと向かうが公園の北側には城壁がそびえ立っている。壁以上に威圧的なのが壁に埋め込まれた四本のタワー。タワーと壁とで西洋風のお城を形成しているのだ。いつの間にヨゼフも壁に沿って歩むようになる。壁をたぐっていくとやがて東のコーナーにブチ当たる。お決まりのゲートだ。夜間はフリーパスだと走り屋の友人が言っていたがヨゼフは太陽の子だ(いや、走り屋だって風の子だよ)。料金ぐらい払う覚悟はできている。喉にひっかかった魚の骨を除去する非礼を許してくれと道案内の係員に乞わねばならない、その位の覚悟だってできている。ヨゼフの目的はいつだってはっきりしている。JR品川駅だ。しかしゲートをくぐって入ったそこは単なるおみやげショップでしかない。ヨゼフは忙しいのではなかったか。ところで係員よりうけとった案内図によると、この施設は東西に一列に並ぶ四つのタワーとそれらを貫く一本の通路とからなっており、先ほどヨゼフが入場を許可されたブロックは一番東のタワー、図には「タワーd」とある。タワーは西から順にそれぞれa、b、c、dと呼ばれており、cとdは空港の出発ロビーとなっている。到着したばかりのヨゼフに今さら出発の語をぶつけてみてもむなしいばかりであろう。
cとdはいま見たとおりだが、残るaとbについて。JR品川駅はタワーaとbにはさまれるかたちで南北に細長く、それも地下に横たわっている。当然駅へのアクセスはタワーのaもしくはbのいずれかを用いることになる。具体的には、bは東海道線への、aは「待たせない」ことで有名な環状線へのそれぞれ連絡口となっている。東海道をひた走ってきたヨゼフのことだ、これ以上待たされたくはないでしょう。かれは東へと北へと帰りゆくところなのだ。彼の帰りゆく方角は、彼が意識にめぐりあって以来つねに一定の「向き」をたもってきた。空間的にかれは規則正しい生活を送ってきたのだ。戯れにかれは自らのモジョを「黒く磨かれたる方位自信」などと呼んでみたりもする――もしそんなものがかりにあったとしての話だが。もっともヨゼフはここでタワーのaまで、非効率きわまりないことにしばし西方向へと逆行しなくてはならない。ヒコーキに乗っちまったら、どこ連れてかれるかわかったもんじゃない。かれが嫌悪するのは時間や日付の不在ではない、空間感覚の喪失なのだ。タワーは円柱であるからおみやげショップも円形に展開している。お買物の精神性についてもどこかで論じなくてはならないな、とヨゼフ。西へと通じる廊下がどこかに開かれるはずなのに、おみやげショップはかたくなにおみやげ類の販売に固執する。ぼやきついでに、飲み物の一杯ぐらい出してくれても良さそうなものなのに。
ヨゼフはタワーdの一階で途方にくれる。例によって時計というものをもっていないため急いだものかそれとも一息ついたものか悩みの種なんですとこぼさずにはいられない。水を多く消費する化学や生物の実験教室ほどの必然性はないが、おみやげ屋さんもまた一階に集中するものなのだろうか。ところでらせん階段を記述するときその巻きの方向が問題になることがある。全音音階――隣接する音程がつねに二度上か二度下である音階――に二通りのつくり方しかないのと同様、巻きといっても時計回りか反時計回りの二通りしか考えられない。回転は重要なモチーフだ、と信ずるヨゼフにしたって、階上を目指すことがないわけではないのだ。おみやげ類の販売に徹するあまりずい分と細い階段になってしまった。左手に内壁のrを感じつつかれの視線はやがて小さな納骨堂をとらえる。「ミタマ堂・UFO」と銘打たれたトランクルーム状のペット墓地である。
ヨゼフは二階に到着する。納骨堂の「小」なんて、到着してみるともう、足元のほんの小さなゴミためでしかない。誰が拾ってやるか。というのも、正面の壁、南側の壁にすでに納骨堂の「中」が出現しているのだ。いきなり不案内な土地で要領よく最高のアトラクションに出会えるということはまずない。素人は前座だけで満ち足りて帰ってゆくのだ。そこが旅の奥深いところといえなくもないが、いま納骨堂の「中」では、目ががらんどうのガラス製エンゼルフィッシュが泳いでいる壁面いっぱいの水槽で、その同じ水槽にパンダさんが、やはり青ガラスとなって泳いでいるのではなく、水はないのだからこれは浮遊しているというべきだろう。さぁ通路はここから西へと、すなわち右方向へとのびゆくはずである。今いるタワーdは施設全体の最東端に位置するのだから。ヨゼフはあえて詮索しようとはしないが、二階のこの通路ははるか東のありえない彼方から続いているようにも見える。ヨゼフは西を目指す。北へと回帰するために。タワーは円柱であるからそれぞれのフロアーもまた円形のはずである。
ヨゼフはタワーの中央部、一番ふくらんだ部分に達する。ここは天井も高い。納骨堂の「大」である。これまでのどこよりも荘厳なこの空間は、一応お寺なのだがしかし一見すると物置きのようでもある。左手に大きな木箱がうち捨てられている。水戸のケージ展の「今週はお休みの作品たち」である。かれは石井先生なんかとは違い、全音音階などではなく沈黙を演奏させようとしたのだから。しかしかれのオーラはこうして梱包してとっておくのが一番だ。弟子を自称する有象無象どもはそれこそ沈黙することを学ぶがよい。さてタワーもd、c、bと加速してゆく。前方を歩む和服姿の女中。美人だ。キツネが化けているのだ。彼女は一番奥のタワーaまでヨゼフを導くであろう。タワーaの広間にちゃぶ台が一つ。まぐろ丼とおしること甘酒を足して三で割ったのがお客さんのいま目にしてらっしゃるこの作品なのです、とエコーに語りかけるが早いか、あとはもう記憶にすら影をとどめない和服姿の女中。こんなもの喰えるかよ、しかも西を向いて‥‥。前方の壁。西側の壁。行き止まりだ。やがて壁のむこうから「いやぁ待たせたね」と石井先生が姿をあらわし、主人の席にどっかと腰をおろす。ええっ、こんなの喰われませんよ‥‥。
ヨゼフ君、きみは品川のサムライだ。外国側についたがため幕府側に追い回されるきみはもうどうしようもなく品川のサムライだ。階下に乾燥ソバが用意してある。ムラサキ色の乾燥ソバだ。きみに一つ頼み事が、あるとすれば当然その乾燥ソバの入手だろうな。そこできみは運悪く、この地区の手入れを今まさに開始したばかりの役人どもに発見されてしまうのだ。一階にはガラス戸がある。西の口だ(東のそれとは大分趣きのことなることにお気づきの読者もあろうかと思うが、この対比は聖と俗の対比でもあるのだ)。役人どもはガラス戸を突き破る。きみの喉元めがけて突き棒がのびてくる。きみだってそれなりの訓練を積んでいるわけだから一旦は「ハッシ!」と受けとめるだろうね。だが多勢に無勢とはこのこと。すぐに次の突き棒が飛んで来るのさ。クビから上と、胴体の首からまぁ鎖骨ぐらいまでのあたりか、その二点、棒に突き刺したまま意気揚々と引き上げてゆく役人ども。口々に、「いやぁ有意義な取材でしたなぁ。」
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