高祖父、河北一のはとこに河北義次郎がいる。
以前、調べていた段階では縁者だろうなという漠然とした考えしかなく、もちろん繋がりのつの字も見当たらなかった。
それが、義次郎の弟秀之進の曾孫にあたる方から、メールをいただき一と義次郎がはとこ関係であることを教えていただいた。
妻は岩木八五郎の次女かね。義次郎の遺言により明治24年離婚。嫡子俊男は早世し、義次郎の部下弘中忠見四男忠彦を嗣子とした。忠彦は義次郎弟秀之進の長女茂子と婚約中没す。
以下、『明治維新人名辞典』(編:日本歴史学会、発行:(株)吉川弘文館[1981])、『河北家略譜』(著:河北珍彦[1989])より。
河北義次郎
弘化1(1844).4.20-明治24(1891).3.10 (48)
諱:俊弼
称:義次郎
生:長門国萩
身:萩藩八組士、御楯隊軍監
禄:100石
安政5年、松下村塾に入り吉田松陰に学んだ。
元治1年、京都藩邸にあって7月の禁門の変の時には天王山から鷹司邸に戦った後帰藩し、10月御楯隊に入った。
慶応1年1月恭順派政府軍と美禰郡大田に戦い、翌2年6月の幕長戦には芸州口に出陣して軍監となった。
同年12月洋行のため出発し、3年7月英国に留学した。
明治5年英国公使館御用掛となり翌年帰朝して統計寮に出仕し、ついで台湾蕃地事務局御用掛から大蔵小丞に任ぜられたのが、10年の西南戦争に従軍して陸軍少佐となり、11年広島衛戌司令官となり、21年サンフランシスコ領事となり、23年京城公使館書記官に転勤の後、同館弁理公使に昇進し、ついでその地で病死した。年48。
系: 河北正之 ┝━━━━┳━正好━━━━━信藏 嶺村素輔 虎 ┃ ┝━━━━━一 ┝━━━━━一枝 ┃ フキ ┝━━━━━俊 ┝━━━━━母 ┃ 伊登 貞子 ┃ ┗━三浦次正━━━河北仙蔵 ┝━━━━━義次郎 イソ ┝━━━━━俊男 カネ
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