村田光賢は高祖父河北一の曾祖父にあたり、子孫に村田清風や山田顕義らがいる。
光賢妻岩子は兼常伊兵衛久齋女で、岩子の母の弟村田為之の養女。
子は3男3女で、長女土(早世)、次女千代(松浦忠左衛門至妻)、長男清風、次男久芳五郎右衛門為政(久芳一格養子)、三男山田市郎右衛門、三女秀(八谷正左衛門通聰妻)。
以下、『増補近世防長人名辞典』(著:吉田祥朔、発行:マツノ書店[1976])より。
村田光賢
宝暦7(1757)-文政2(1819).4.9 (63)
諱:光賢
称:四郎右衛門
身:萩藩八組士
通称は四郎右衞門、本生は賀屋氏村田四郎左衞門為之の嗣子となり、藩に仕えて蔵元吏となりのち大島郡宰判所務代官に任ず、享和2年官を退き沢江に帰住、文政2年4月9日歿す、年63。
後の四郎左衞門清風はその長子なり。
光賢の養父、村田為之は、村田四郎左衛門定光と村田傳右衛門正信女との間に生まれる。
妻は金子正左衛門女で、後妻は山縣傳左衛門女、大田忠右衛門女。
子は幡吉(早世)で、姪岩子を養女とし、その夫光賢を嗣子とした。
『増補近世防長人名辞典』(著:吉田祥朔、発行:マツノ書店[1976])より。
村田為之
享保16(1731)-寛政1(1789).9.23 (59)
諱:為之
称:四郎左衛門
身:萩藩八組士、代官
通称四郎左衞門、萩藩士にて代々大津郡三隅に住す、為之吏材あり、宝暦中藩主重就に仕えて郡算用方より新札座本取締役呉服方等を経て同9年所帯方筆者より御仕組方役人に転じ所謂獅子廊下に於ける財政会議に参与してその功を遂ぐ禄25石を加増せられ大組に加えられる、その後美禰阿武山口大嶋熊毛上関の各代官に歴任し寛政元年9月23日役中に歿す、年59、後の四郎左衞門清風は為之の嫡孫なり。
系: ┏━土 ┃ ┣━松浦千代 ┃ ┣━清風 ┃ 賀屋武矩┓ ┣━久芳為政 河北信藏 嶺村素輔 ┗村田光賢 ┃ ┝━━━━━一 ┝━━━━━一枝 兼常久齋 ┝━━━━╋━山田市郎右衛門━━フキ ┝━━━━━俊 ┝━━━━━母 ┝━━━━岩子 ┃ 伊登 貞子 ┏━某 ┗━八谷秀 村田定光━━┫ ┗━為之━━━幡吉
Climbing the Hill | 013 | 015