020 山田顕義 2002.4.13

日本大学の前身日本法律学校の学祖でもある山田顕義は、高祖父河北一の従兄弟。村田清風は大伯父にあたる。
妻は鹿島屋喜右衛門の長女で、井上馨の養女であった龍子。
長男金吉は早世したので、甥の久雄を嗣子としたが、25で亡くなり、久雄の父で顕義の弟河上繁栄が相続した。
その後、松平容保の三男英夫が選定相続人となり長女梅子の夫となった。
以下、『明治維新人名辞典』(編:日本歴史学会、発行:(株)吉川弘文館[1981])より。

山田顕義
弘化1(1844).10.9-明治25(1892).11.14 (49)
諱:顕孝、顕義
称:市之允
雅:狂痴、空斎、養浩斎、不抜、韓峰山人
生:長門国萩椿郷東分村
身:萩藩八組士、司法大臣
禄:102石
贈:正二位、勲一等、伯爵

安政5年萩の松下村塾に入って吉田松陰に師事し、文久2年攘夷の血盟に加わり、京摂の間に奔走。翌年帰国して狙撃隊を編成し、自ら隊長となった。元治元年上京して7月の禁門の変に奮戦したが、利あらず帰国し、8月下関で英米仏蘭四国連合艦隊と戦った。その後、藩論は恭順派に傾いたが、革新派諸隊中の御楯隊司令として、慶應元年正月美禰郡内で恭順派の萩軍を破って藩論を回復した。同2年6月幕長戦に高杉晋作と共に幕艦を撃破し、また諸所で戦功を挙げた。ついで整武隊総督となり、明治元年の戌辰戦争には征討総督仁和寺宮副参謀として東北諸藩および箱館五稜郭を降ろした。2年兵部大丞に任ぜられ、また永世禄600石を下賜され、3年大阪に兵学校を設けて教授に当たり、4年陸軍少将兼兵部大丞となり、10月特命全権大使岩倉具視に従い、理事官として欧米各国を視察、6年6月帰朝した。ついで東京鎮台司令長官・清国公使・司法大輔を勤め、10年西南戦争に政府軍の別軍を率いて八代から上陸して鎮定に功あり、翌年陸軍中将に進んだ。12年参議兼工部卿、18年司法大臣となり、24年6月病気のため辞職したが、なお枢密顧問官・議定官の重責にあった。翌年療養のため帰国し、ついで帰京の途中、生野銀山にて急死した。年49。

系:

                         河北信藏                  嶺村素輔
                         ┝━━━━━━一          ┝━━━━━一枝
     山田市郎右衛門━┳━フキ          ┝━━━━━俊          ┝━━━━━母
                     ┃                伊登                    貞子
                     ┗━顕行
                         ┝━━━━━━顕義    ┏━金吉
                         鶴子          ┝━━━┫
                                       龍子    ┗━梅子


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