山田亦介は、高祖父河北一の伯父である。
亦介は、吉田松陰の養父大助の親友で、松陰の長沼流兵学の師でもあった。
『山田顯義傳』(編、発行:日本大学[1963])によれば、娘清子が従兄弟大津唯雪の妻とのことだが、『村田清風全集』(編、発行:山口県教育会[1961])では、娘綾子が唯雪の子光太郎の妻となっており、唯雪の妻は清子は高橋の女という記述が多い。
以下、『明治維新人名辞典』(編:日本歴史学会、発行:(株)吉川弘文館[1981])より。
山田亦介
文化5(1808).12.18-元治1(1864).12.19 (56)
諱:憲之、公章
称:卯七郎、亦介
雅:愛山、含章斎
生:長門国萩
身:萩藩八組士
禄:127石8斗
贈:正四位
天保7年小姓役となり、10年密用方右筆となり、編輯局の総裁を勤めた。同14年萩羽賀台大操練の総参謀格を勤め、弘化元年藩内北海岸を、3年南海岸を巡視し、4年見島にそれぞれ砲台を築き海防に尽力した。嘉永5年古賀〓庵(〓:人扁に同)の「海防臆測」を板行した罪で閉門処分を受けた。当時、吉田松陰に兵学と世界の大勢に着目すべきことを教えた。安政5年7月再び起用されて手廻組に列し、造艦・鋳砲の諸務を総管し、9月兵庫警衛の任につき、6年来原良蔵と兵制改革に当たって西洋式を取り入れた。万延元年様式の軍艦庚申丸を造り、翌年これに乗って下関に航し、英艦と応接し、文久2年英商ガールから壬戌丸を購入してその奉行となった。同3年遠近方となり、政務座の右筆を兼ね、また用談役に進んだ。元治元年禁門の変によって幕府へ謝罪のため益田右衛門介・福原越後・国司信濃の三家老自殺し、恭順派が藩政権を握ったため萩の野山獄に入れられ、同志6人と共に斬殺された。年55。
系: ┏━鶴太郎 ┏━亦介━━━┫ ┃ ┗━大津綾子 ┃ ┃ 河北信藏 嶺村素輔 ┃ ┝━━━━━━一 ┝━━━━━一枝 山田市郎右衛門━┻━フキ ┝━━━━━俊 ┝━━━━━母 伊登 貞子
Climbing the Hill | 018 | 020