高祖母河北伊登の高祖父佐世政如の弟が、岡部利済利輔兄弟の曾祖父来原盛任の祖父盛之である。
兄弟共に吉田松陰門下。
詳細は不明だが、この岡部家の先祖も小野家と思われる。
以下、『明治維新人名辞典』(編:日本歴史学会、発行:(株)吉川弘文館[1981])より。
岡部利済
天保11(1840).7.30-明治28(1895).10.28 (56)
諱:利済
字:子楫
号:巨川
称:富太郎
生:長門国萩南古萩
身:萩藩八組士
禄:40石
嘉永6年志を立て外戚来原良蔵・土屋矢之助らに学び、藩校明倫館に入り、安政3年吉田松陰の松下村塾へ入塾、4年松陰の命により富永有隣らと須佐益田氏の郷校育英館の教育に参じた。文久2年江戸に行き、藩世子に扈従して京に入り、ついで下関に帰って攘夷に尽した。元治元年同志と大組隊を組織して副長参謀となり、また衝撃隊を編成、さらに勇力隊司令に選ばれ、慶応2年の幕長戦に芸州小瀬川口に出陣した。明治元年には干城隊中隊司令として北越に出征して功を樹てた。7年佐賀の乱に連座し入獄したが、冤罪判明して釈放され、8年山口県、18年大阪府の官吏となり、20年以後神戸に寓居して病死した。年56。
以下、『増補近世防長人名辞典』(著:吉田祥朔、発行:マツノ書店[1976])より。
岡部利輔
天保13(1842)-大正10(1921).2.22 (80)
諱:利和、利輔
称:繁之助、繁太郎、甚太、仁太、仁之助
生:長門国萩南古萩
身:萩藩八組士
贈:正七位
初名利和、通称繁太郎または仁之助といえり、長藩士富太郎の次弟なり、安政3年松下村塾に入門し松陰の教を受く、兄利濟と倶に松陰の業を佐け甚だ親愛せらる、元治元年藩世子の近侍となり慶応3年干城隊の世話役となる、維新後は工部省に入り造船大属より製作寮に勤め六等出仕となり正七位に叙せらる、後官を罷めて萩に帰り、大正8年歿す、年78。
系: 嶺村素輔 河北一 ┝━━━━一枝 米原政道━┳━佐世政如━━如章━━彦七 ┝━━━━俊 ┝━━━母 ┃ ┝━━━伊登 貞子 ┃ 末子 ┃ ┃ 岡部藤吾 ┃ 来原盛郷 ┝━━━━┳━利済━━精一 ┃ 来原盛温 ┝━━━━喜久 ┃ ┃ ┝━━━盛任━━利尾 ┗━利輔 ┗━来原盛之━━菊
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