036 木戸幸一 2004.3.20

高祖母河北伊登の高祖父佐世政如の弟が、木戸幸一の祖父来原良蔵の高祖父盛之である。
東京裁判でA級戦犯として裁かれた政治家で、父は木戸孝允の養子孝正。
以下、『日本近現代人名辞典』(編:臼井勝美ほか、発行:(株)吉川弘文館[2001])より。
木戸幸一
明治22(1889).7.18-昭和52(1977).4.6 (87)
身:華族政治家

昭和時代前期の華族政治家。明治22年(1889)7月18日侯爵木戸孝正の長男に生まれ、学習院を経て、同44年京都帝国大学法科大学政治学科に入学。ここで社会主義に若干の関心をもったという。大正4年(1915)卒業し、農商務省に入り、同6年父の死去により襲爵し貴族院議員となった。昭和5年(1930)商工省臨時産業合理局第一部長兼第二部長を辞し、近衛文麿・岡部長景らのすすめで、内大臣秘書官長に就任した。この前後から近衛・有馬頼寧・岡部らとともに革新的な若手貴族として注目された。同11年内大臣秘書官長を辞任して、8年以来その職にあった宮内省宗秩寮総裁専任となった。この間元老西園寺公望の秘書である友人原田熊雄らと連絡をとりながら、2・26事件に至る事件の連続の時代を内大臣を輔佐し、西園寺の信任を得た。12年第一次近衛内閣に文相として入閣、さらに13年には厚相を兼任、のち厚相専任となって、近衛を助けた。14年平沼内閣の成立にあたって、近衛とともに入閣、内相の重任にあたった。15年近衛らと新党を計画していたが、6月1日病気で辞任した湯浅倉平のあとをうけて内大臣に就任した。これは西園寺の発案であった。木戸は近衛らとともにのちの新体制運動から大政翼賛会の成立に連なる新党結成によって内外時局への対応と軍の独走をチェックしようと努力していた。内大臣就任の時点では、内大臣は元老がその任を辞していた首相候補者の選任の中心となっていたが、木戸は近衛(第二次・第三次)・東条・小磯・鈴木(貫太郎)・東久邇・幣原の各内閣の成立に関与した。太平洋戦争開戦およびその終結において天皇に最も近い側近として輔佐し、20年内大臣府の廃止に至るまで天皇制の維持に尽力した。同年A級戦犯として巣鴨に拘留され、23年極東国際軍事裁判で終身禁錮の判決を受けたが、30年仮釈放、ついで自由の身となった。以後政治から全く引退した。52年4月6日宮内庁病院で死去。87歳。青山墓地に葬られる。法名は天真院聖林輔幸大居士。

系:
  
                                                      嶺村素輔
                                            河北一    ┝━━━━一枝
  米原政道━┳━佐世政如━━如章━━彦七    ┝━━━━俊        ┝━━━母
           ┃                      ┝━━━伊登                貞子
            ┃                      末子
            ┃
            ┃               福原光茂      ┏━木戸孝正━━幸一
            ┃       来原盛温    ┝━━━━来原良蔵 ┃
            ┃       ┝━━━盛任━━伊代   ┝━━━━╋━經
            ┗━来原盛之━━菊            峯    ┃
                                      ┗━木戸正次郎






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