Judea’s Kiss


Judea’s Kiss −第1話(Reproducts:Ver2.0)−
◆Prologue◆

仄暗い部屋。

終わりを示す特有の空気。 ――気怠さと、少しばかりの後悔が空間を占める感覚。

足並みの揃わないふたつの吐息。

ひとつの影。


「ねぇ……」
「……ん?」

どことなく眠たげな、甘えた響きの声に応える。

「今日、どうするの……?」

男は女の髪を梳くように撫でながら答える。

「そうだな…… やっぱり、帰るよ」
「……そう」

拗ねた様な返事に苦笑いを浮かべつつ、ベッドから起きあがると、
フローリングの床に放りっぱなしだった服を身につけ始める。
シャツのボタンを留め終えて、ブルゾンを羽織ろうとすると、

「本当に帰っちゃうの?」

ベッドから呼び掛ける声は寂しそうだった。

「大丈夫だよ。明日になれば逢えるだろ?」
「……うん。それはわかってる……けど」

シーツの端を指に巻き付けたり、ほどいたりしながら、
納得しきれてはいないのだろう、やや俯き加減に答えた。

そんな様子を眺めながら男はベッドに腰掛けた。
そして女の頬を、そっと両手ではさみこんで、
―――接吻(くちづけ)をした。

「じゃあ、また明日」

そう言って男がドアを閉めようとした時、
半分眠っている様な、とろんとした声で問いかけられる。

「……さっきのキス。 ……誰の為のキスなの?」
「勿論、お前の為だよ」
「…………じゃあ、何の為のキスなの?」

男がその問いに答えることは無く、

「おやすみ……」

その声だけを残して部屋を出ていった。

人気の無い住宅街を歩きながら、男はさっきの女の質問が頭から離れなかった。
ブルゾンの内ポケットから煙草を取り出し、火を点けると深く吸い込む。

「……まったく。女の直感ってヤツなのか?」

愚痴をこぼす様な口調で呟きながら、夜空に向かって長く煙を吐き出した。

―――『何の為のキスなの?』か……

 
―――――――――――――――――――――“裏切り”の為さ。


◆1◆

衣替えを終えたばかりの月曜日。
秋になりきっていない、しかし澄み切った空。
学生服をかけた椅子に身を委ねたまま、視線を上に向ける少年。
細身ではあるが華奢ではなく、豹の様なしなやかな印象を与える体つき。
年齢不相応とも思える底の見えない奥深い眼差しも、
眼にかかる程度の少し長めの前髪をかきわける、そんな仕草すらこの少年には不思議と合っていた。

「……いい天気だよな」

太陽が昇りきらない空を、ガラス越しに飽くことなくその視線の先に据えて、
不満げに少年は呟くと、コーヒーを口にした時。

―――カランカラン

軽やかに響くドアベルが、新たな来訪者を告げた。

「こらっ。朝っぱらから何を呑気にコーヒーなんて飲んでるのよ」

そんな台詞と笑い声を引き連れて現れた少女―――藤代 那緒(ふじしろ なお)は、
白いシンプルなデイバッグを肩から下ろし、ちゃっかりテーブルを挟んだ向かいの席についた。
邪気のない幼さを残しながらも、知性の冴えを感じさせる面立ち。
けれど、冷たい雰囲気を微塵も感じさせず、いつも元気な人なつっこい雰囲気は、
クラスの内外、男女の区別無く人を惹きつけるのに充分すぎる程だった。

「なんだよ藤代、お前も寄り道してるじゃん」
「んー、なんか今日早く目ぇ醒めちゃってさ。
 じゃ、たまには優雅な朝のひとときでも過ごそうかなって思って。
 ……けど、桐弥(とうや)くんは何でこんな朝早く?」
「何で……って、俺は月曜の朝は大抵ここに来てるぜ。
 学校生活を1週間乗り切るための下準備みたいなもんだよ」
「キザなこと言っちゃってぇ。けど、その割にはよく早退してるよね」

からかう様な口調で那緒が言った時、
「いらっしゃい。二人は知り合いだったんだね、知らなかったよ。  ……あ、注文は何にするんだい?」 誰もこの人の怒る姿を想像する出来ないのではないかと思うほど、 穏やかな雰囲気をもった壮年の男性、ここの喫茶店『フォレスト』のマスターが、 黒い前掛けを身につけた、いつも店にいるときの格好でお冷やを持ってきた。 「おはようございますっ、マスター。わたしいつものお願いします」 「ああ、おはよう。いつものだね」 マスターはオーダーの確認をするとカウンターへ戻り、支度を始めた。 「そういえば、藤代と一緒にここに来たことなかったもんな、  マスターが知らないのも無理ないか」 桐弥が思い出したかの様にそう言うと、 「相変わらずだな、桐弥くんは。そんな呑気なとこがアイツにそっくりだよ」 カップに紅茶を注ぎながら、懐かしそうにマスターが微笑んでいた。 「そうかなぁ、やっぱり似てるんですかねぇ」 面映ゆい調子で返事をする桐弥と、笑みを絶やすことのないマスター。 その2人のやりとりから取り残されていた那緒が、興味津々な顔をして聴いてきた。 「ねぇ、アイツって誰?」 「ああ、葉月 杏一(はづき きょういち)っていう、  とても会社勤めの人間とは思えない様な生活してる変わり者だよ」 いかにもわざとらしく溜息をつきながら桐弥が答えると、 「……葉月って、桐弥くんと同じ苗字じゃない。親戚の人?」 「世間一般では父親って言うらしいけどな」 桐弥は口元に押さえきれない笑いを浮かべながら返事をすると、 那緒が一瞬きょとんとした眼をしたあと、つられるように笑い出す。 「あははははっ、お父さんのことをそんな言い方しちゃ悪いよぉ」 「笑いながら言っても説得力ないぞ」 そんなとりとめもないやりとりをしていると、
「お待ちどう様」 ジャムの瓶と湯気をたてているティーカップが運ばれてきた。 那緒は目の前に紅茶が並んだだけで、端から見てもわかるほど幸せそうな表情をしていた。 「来た来たっ。ここのロシアンティーってなんでこんなに美味しいのかな。  紅茶ももちろん美味しいし、良い薫りなんだけど、  このジャムがまたすごく良い薫りで美味しいんだよねぇ」 「まったく。紅茶一杯でそんなに嬉しそうにするなよ」 「いいじゃない、ホントに美味しいんだから。ねぇ、マスター」 「そんなに気に入ってくれるとこっちも嬉しいよ」  マスターはまるで実の娘でも見るような優しげな眼差しを送る。 その後しばらくの間、静かではあるが心地よい雰囲気の中で、 時間だけが緩やかに過ぎていった。 「ほら、そろそろ行こうぜ。もうそんなにのんびりもしてられない時間だぞ」 「えっ、あ、もうこんな時間?」 カウンターの横に鎮座している大きな柱時計を見ると、確かに8時20分を指している。 遅刻することはないだろうが、これ以上のんびりしていられそうもない時間だった。 「それじゃ行って来ます。あ、帰りに俺のバイク取りに来ますよ」 「ごちそうさまでした。行って来ますっ」 「ああ、いってらっしゃい。気を付けてな」 立ち上がりながら桐弥は学生服を身につけ、那緒はデイバッグを肩にかける。 準備を終えると、二人は小銭をテーブルの上に置いて店を後にした。 「ねぇ、バイクって?」 「ん? こないだまでちょっと『フォレスト』の裏のガレージ借りてね、イジくってたんだよ」 「ふぅん。どんなバイクなの?」 「そのうち見せてやるよ。その時までのお楽しみってことにしといて」 「うんっ、楽しみにしてるね。ちゃんと約束は守りなよっ」 そう言って那緒は学校への道を跳ねる様に駆け出した。 桐弥もそれにならう様に足を速める。 やわらかな空気の中、いつもと変わらぬ日常が始まるとその時は信じて疑わなかった。 ―――いや、疑うことすら考えていなかった。 ◆2◆ 2時間目後の休み時間。 桐弥が窓際の自分の席でうららかな日差しを受けながらマンガ雑誌を読んでいると、 「おい、桐弥っ! なに呑気にマンガなんて読んでるんだよっ!!」 血相を変えて教室に飛び込んで来るなり、そう言い放つ長髪長身の男。 「なんだよ、また遅刻かよ、桂(けい)?   担任が『また神村君は遅刻か?』ってボヤいてたぞ」 雑誌から視線を上げ、モノマネを交えつつ桐弥が言うと、 「そんなコト言ってる場合じゃ無ぇんだよっ!!」 全力疾走してきたのだろう、整わない呼吸、汗で顔に張り付いた長い髪、 学生服も、その下に着ていたシャツも襟元が乱れている。 そんな自分の格好を気にすることもなく、 長髪の男―――神村 桂(かみむら けい)は切迫した雰囲気を漂わせていた。 その抜き差しならない桂の様子を見て、桐弥は雑誌を置くと立ち上がった。 「悪ぃ、冗談事じゃなさそうだな」 「……ああ、すこぶるマジだ。事情は後だ、B棟までダッシュするぞ」 「OK。けど大丈夫か、息上がってるぞ」 「ンな悠長なこと言ってる場合じゃ無ぇからな。急ごうぜ」 桂はそう言うと身を翻し、文字通り息つく間もなくすぐさま教室を飛び出す。 桐弥もそれ以上この場で詮索することはせず、その後をB棟に向かって駆け出していく。 あっという間に出ていった2人を、教室にいた面々は呆然と見送ることしか出来なかった。  ――この学校の校舎は上から見ると『コ』の字を描くように、    全て3階建ての4つの棟で構成されている。    校門に一番近いA棟(『コ』の字の上の横棒に当たる)    ここは職員室や保健室などの学校を運営するのに必要な場所や、    美術室や図書室などの特別教室が入っている。    B、C、D棟は学年毎にまとまって、それぞれの教室が入っている。    (B、C棟は共に『コ』の字の縦棒、D棟は下の横棒に位置している)    その中では、校門に最も近いB棟に3年生が、C棟には1年生、    校門から一番離れたD棟に2年生の教室が宛われている。    2年生の中で朝に弱い連中は、2年の教室が遠いことに不満を洩らしているが、    残念ながら、当面のところ改善されることはないだろう。    何故なら『学校』と言う場所は『変革』を歓迎する場所では無いからだ。 休み時間で、人が溢れかえる廊下をひた走る桐弥と桂。 人の流れを全て把握しているかの様に、2人は駆け抜けてゆく。 そのさなか、桂の横に並んで走っていた桐弥が聴いた。 「で、一体何があったんだよ?」 「桐弥、オマエ3年の村岡って知ってるか?」 桂は視線を前に向けたまま、走る速度を落とすことなく返事が返ってきた。 「いや、知らないけど」 「去年、俺の同級だったんだけどな」 「さすが高校2年生2度目だけあるな。顔が広いこと」 「茶化すなよ。タチ悪ぃ連中とツルんでたから、仲が良かった訳じゃないけどな」 「その村岡ってのがどうかしたのか?」 桐弥が質問を投げかけたその時、やっとD棟からC棟への連絡通路に辿り着いた。 「クソっ! まだC棟かよっ!!」 苛立たしげに桂が吐き捨てる。 「話は後回しにしよう、桂。それで俺は何をすればいいんだ?」 桐弥は話を最後まで聴く暇は無いと判断し、結論を求めた。 「実際村岡に会ってみないと話がどう転ぶかわかんねぇけど……  荒っぽいことになるかもな、覚悟はしといてくれよ」 「OK、怪我しない程度に頑張ることにしとくよ」 桐弥がそう言うと、桂が視線を桐弥に向け、桐弥も桂に視線を合わせる。 二人は顔を見合わせると、揃って不敵な笑いを口許に浮かべ、 B棟に向かって更に足を速めて駆け出した。                ――It comes after Next Story...

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