Judea’s Kiss


Judea’s Kiss −第2話(Reproducts:Ver2.01)−
◆1◆

既に喧噪は押さえきれないであろうことは、そこにいる人間全てが理解していた。
――B棟、3階から屋上へ続く階段。そこに立つ人間から誰も眼を離さなかった、いや、離せなかった。


桐弥と桂がC棟を駆け抜け、B棟に入ろうとした時、

「あれっ? 桐弥に神村さん。そんなに急いでどこ行くの〜?」

緊張感のかけらもない声で呼びかけられた。

「なんだ、大貴(だいき)かよ」
「何してたんだよ、こんなトコで?」

その声に一気に気勢を削がれて桐弥は足を止め、振り向く。
桂も走るのをやめ、荒い息を整えながらそう言った。
その2人の振り返った先には、
小柄な体躯に、自然に与えられた柔らかな栗色の髪をわずかに風にそよがせ、
そして、とても男とは思えない綺麗な顔立ちをした少年が立っていた。

「……何してたって言われても。ここの自販機でジュース買って飲んでたんだけど」

飲みかけのジュースの缶を握ったままきょとんとしたのも一瞬、
女の子と見紛う容貌をした少年――浦野 大貴(うらの だいき)は、相も変わらず呑気に答えた。
しかし、桂の質問の意図を掴みきれないのか首を傾げる。

「ったく、マイペースな奴だな」

苦笑しつつも、早々に桐弥がB棟に向かおうときびすを返す。
未だ肩で息をしている桂も、後に続こうと足を運ぼうとすると、

「そんなことより2人ともどこ行くの? そろそろ戻らないと授業始まるよ」

現在の時刻を確認しようと時計を求めて視線を彷徨わせながらも、
おっとりした口調を変えることない大貴に、

「大貴、なんか変わったことなかったか?」

やっと呼吸が落ち着いたのか、桂は首だけを大貴の方へ向けて、
顔に降りかかる前髪をうざったそうに払いのけながら聴いた。

「えっ……!? ……なんかあったの?」

驚いたのだろうか、只でさえ大きい眼を更に見開いて、大貴が問い返す。

「知らないんならいいんだ。桐弥、行こうぜ」
「ああ」

それだけ言って2人がB棟に入ると、

「待ってよ。何だか知らないけど、僕も行くよ」

缶の中に僅かに残っていたジュースを一気に呷ると、
空き缶をゴミ箱に放り投げて大貴もその後を追った。

3人が揃って2階に上がろうとしたその時。
頭上から抑えつけられていた静寂を破る様に悲鳴が響きわたった。
そして一瞬の後、笑い声。
人の神経を逆撫でするようなカン高い笑い。
その笑い声を引き金としたかの如く、大勢の人間の巻き起こす喧噪。
全てを耳にした時、ようやく3人は生徒達の集まるその喧噪の場に辿り着いた。

「遅かったのか……?」

誰に聞かせるつもりだったのか、
辛うじて聞き取ることの出来る程の消え入りそうな声で桂が呟く。

「「…………」」

状況をまだ把握出来ていない桐弥と大貴は何も言わずに、
ざわめいている生徒達の視線の先に振り返る。
眼を向けた先に見えたものは、

――屋上に向かう階段の踊り場。
―――恐らくは3年だろう女子生徒。
――――その腰に左手を回している男子生徒。

全てが学校の中に存在するものだ。おかしいところはない。
ただし、
踊り場が赤く染まっていなければ。
女子生徒が震えながら右肩から血を流していなければ。
男子生徒が右手のダイバーナイフを見ながら笑っていなければ。

その光景を見た瞬間。

「村岡ァっ!! テメェ何してんだっ!!」

桂が叫んだ。

「神村さん待って!」

階段を駆け登ろうとしていた桂を、隣にいた大貴が慌てて掴み止める。

「止めんなっ!!」
「今動いたら女の人が危ないよっ!!」

しがみついた大貴すら振り払う勢いを見せていた桂が、
その言葉を聴いた途端、びくっと身を震わせ立ち竦んだ。

「ひゃ……ぁは…ひゃはははははっっ!!」

またも癇に障る笑い声が、村岡の口から吐き出される。

「な…なななんだぁ、……かっ、かみ、神村のイっ…イモムシじゃねえか」

こっちを見ているのにも関わらず、村岡はまるで焦点の合っていない眼をしていた。

「クスリかよ……」

村岡の様子を眺めながら、桐弥はこの状況にあまりにも不似合いな、
穏やかとさえいえる無表情をたたえて淡々と言った。

「ひゅぅ……ひゃぁ、どっ…どうしたんだ、神村ぁ……
 イっ、イモムシはイモムシらしくっ、おおお俺の為にぃっ、
 川に、い…いっ、行って、踏み潰されて死んでこいよぉっっ!!」

ヒステリックに叫ぶと、村岡は右手のナイフで踊り場の窓ガラスを引っ掻き始めた。
―――!
誰もが顔をしかめる不快な音の中、
大貴は心配そうな面持ちで、
桂は焦がす様な怒りを隠さず、
桐弥はゾッとする程の無表情で、
村岡から決して眼を離さなかった。

◆2◆

空気がまるで固体と化した様なこの状況を破る、
最もふさわしい、或いは果てしなくそぐわない闖入者が、
騒ぎを聞き付けたのだろう、ようやくその場に姿を現した。

「お前ら、集まって何を騒いでる!?」

年の頃30前後、グレーの背広、シルバーフレームの眼鏡の奥の神経質そうな眼差し、
教師という肩書きに縋って、生徒の上に立った気でいる人間だ。

「……谷川だ」
「谷川先生っ、大変なんですっ!」
「村岡君が……」

集まっていた生徒達が口々に事情を述べようとまくし立てる。

「……ここっ、これは谷川せんっせい……
 たたたのしいですよぉ、お、おお俺は」

教師が現れたことを、理解しているのかいないのか、
村岡は口許に薄ら笑いすら浮かべて支離滅裂な発言をする。

「何をしてるんだ、村岡っ!! 今すぐそのナイフを捨てろっ!!」

言うなり、谷川はつかつかと階段を上り、村岡の方へ歩を進めた。

「ん、んんっ?? こ、このナイフが悪いんだねっ……」
「ああ、そうだ。早くそれを捨てろ!」

先生という立場上か、面目を保つ為なのか、
あくまで威圧的な口調を崩すことなく、村岡に詰め寄っていく谷川。

「ひぃ…はははっ、はぁい。 すっ、捨てますよぉっ」

もはや笑いともつかない声を立てて、村岡はナイフを手から離した。
谷川は呆気にとられた表情をした。
確かに村岡の手からナイフは離れた。
しかし、その行く先は谷川の左肩だった。

「えっ? ……あっ?」

教師という立場である自分に、生徒が手を出すことなど想像もしていなかったのか、
谷川は起こったことを理解しきれてない様子だった。
自分の左肩に突き立てられた凶器をもう1度見返すと、
その瞬間、はじめて痛みが襲ってきたかの如く、声にならない叫びを上げる。

「―――っ、ぁあああぁっっ!!」
「ぅううるせえよっっ!!」

深々と食い込んだナイフを引き抜こうとした谷川を踊り場から蹴り落とす。

「危ないっ!」

2度、3度、階段に身体を打ち付けながら、
跳ねる様に転がり落ちる谷川。
大貴は谷川が床に叩き付けられるのを庇おうとして、
自分の身体を床と谷川の間に滑り込ませた。
うつぶせになった背中に、息が止まるほどの衝撃がかかる。

「げふっ!! ……ま、間に合ったぁ……」

安堵の声を漏らす大貴の両脇を、弾ける様に駆け上がる桐弥と桂。

「いやあぁっっ!!」

今まで抑えていた恐怖に遂に耐えきれなくなったのか、
村岡に押さえつけられていた女子生徒も感情を露わにして叫んだ。

「があぁっっっ!! テっ、テメェも、何なんだよぉっ!!
 離れろよぉおっ!!」

自分が引き連れてきたことすらも、最早意識の範疇ではないのだろう、
村岡は女子生徒の腰を押さえていた左手を引き剥がすなり、
渾身の力を込めて階段の方に向かって突き落とす。 
……そのつもりだったに違いない。
駆け上がってきた桐弥が左腕を掴んでいなければ。

「大丈夫?」

村岡から視線を外すことなく無表情のままだが、優しい響きで桐弥が聴く。

「……は、はいっ」

怯えの混じった声音でようよう答える。
女子生徒のその返事を聞くと、

「OKだ、桂」

と言って、村岡の腕から手を離した。

「村岡ぁっ!!」

桐弥が村岡から離れた刹那、
桂は両手で襟首を締め上げ、村岡の身体を力任せに壁に叩きつける。

「一体何のつもりだっ!!」
「が……ぁ……ぁあ……」

桂に吊り上げられる格好で、僅かに村岡の踵が床から浮いている。
右手からはナイフが零れ落ち、床と触れあって堅い音を立てた。
村岡は満足に呼吸すら出来ない様子で、両手は何かを求める様に宙を彷徨っていた。  

「おい、桂。やりすぎだ、コイツそれじゃあ返事も出来ねぇぞ」
「……あ、ああ。そうだな」

桐弥に肩を叩かれ我に返ったのか、桂がようやく力を緩めた。
ずるずると壁を滑る様に、だらしなく崩れ落ちる村岡。
その眼は淀みきって、目の前にあるものすら見えていない様子だった。


◆3◆

喫茶店『フォレスト』
桐弥と桂が向かい合ってコーヒーを飲んでいる。

「そんなことがあったのかい? 大変だったね」

2人から話を聞き終えたマスターが、
サンドイッチを載せた皿を2人の前に置きながら、やれやれといった表情を浮かべる。

「ったく、結局あの後村岡の奴、意識トバしちまったから病院行きだし」
「桂、オマエが締め上げ過ぎたんじゃねえの?」

ほんの少し苦々しげな口調の桂を見て、
雰囲気を和ませようとしているのか、笑いながら桐弥が茶化す。

「けど、いいのかい2人とも? そんなことがあったすぐ後にサボったりして」

確かに学校にいれば、3時間目の半ばである時刻を柱時計は指している。

「大丈夫ですよ、マスター。どうせあんなことがあって、マトモに授業が出来るワケ無いし、
 警察かなんかの聴取でも来るようなら、ケータイに連絡してって、那緒ちゃんに頼んだし」

あっと言う間にいつもの軽さを取り戻した桂が、気楽な口調で言う。

「藤代に頼んだって? あんなことの後だろ、今頃大貴にくっついてベタベタしてる頃だぞ。
 大貴だって、騒ぎに巻き込まれた挙げ句、
 怪我こそしなかったけど、痛い思いしたワケだからなぁ」

サンドイッチにかぶりつきながら桐弥が答えた。

「かもな。けど大貴がいれば事情説明は出来るから平気だろ」
「まあな」
「けど未だに、あの2人が付き合ってるってのが信じられん」
「なんで?」
「まぁ、お互いルックスは良い。それは事実だ。けどあののんびりした大貴と、
 しょっちゅう動き回ってる那緒ちゃんって組み合わせがな」
「いいじゃないの。当事者達が納得してれば」

窓の外を眺めたまま、年齢に似合わない達観した発言をする桐弥。

「……けど、なーんかスッキリしないよなぁ。なぁ、桐弥、今日の夜ヒマか?」
「ん? 今日はバイクをここから引き上げる以外は予定ないから、構わないけど」
「お? 組み上がったのかブロスは?」

桂は制服のポケットからロスマンズを出してくわえると、
器用に片手でマッチを擦ると、煙草の先端に火を点けながら聞いてきた。

「どうにかな。マスターとか晴一(せいいち)さんとかに手伝ってもらったけど」
「晴一さんかぁ、そういえば最近会ってないよな」
「なんか論文終わったらしいから、またちょくちょく顔出すって言ってたけどな」
「それならそのうち会えるか」
「ああ」

ようやくサンドイッチを平らげた桐弥が、手に付いたパン屑を皿に払いながら答えた。

「それはともかく。組み上がったばっかりですこぶる悪ぃけど、今日は俺のクルマで遊びにいこうぜ」
「はいはい、わかったよ」

苦笑いを浮かべつつ、脇に置いてあった制服をガサゴソと漁って、
くしゃくしゃになった煙草と、鈍く光るZippoを取り出し、桐弥もマルボロに火を点けた。

「じゃあ、7時頃迎えに行くわ」
「もう帰るのかよ、桂?」
「ああ、帰って一旦寝る。夕べもロクに寝てないからな」

それだけ言い残すと、桂は帰っていった。

「……けど、薬物が出回ってるのか。物騒になったものだね」

皿とコーヒーカップを片づけながらマスターが言った。

「けど、さすがに今日はこれ以上何にも起こらないだろうし。
 今日はパーっと遊んでくるよ」


―――その予想が外れたことを知るのは、まだ先である。


         ――It comes after Next Story...


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