006 続・小野氏 1998.07.26

小野氏は妹子以来多くの官人、文人、武人を輩出している。
『日本人名大事典(新撰大人名辭典)第1巻』(編:下中邦彦、発行:(株)平凡社[1979])や『コンサイス日本人名事典<改訂新版>』(編:三省堂編修所、発行:(株)三省堂[1993])、『日本史大事典 第1巻』(編:下中弘、発行:(株)平凡社[1992])によると以下の名が見られる。

妹子
推古朝、聖徳太子に仕え遣随使として隋に渡る。この時太子の書「日出處天子...」で煬帝を怒らせたことは有名。(607)

石根 (?-778)
遣唐使。帰朝の途、難破し水死する。(778)

毛人 (?-677)
天武朝の官僚。太政官兼刑部大卿として仕える。1613年に発見された墓誌は国宝。

(689-737)
奈良時代、元正・聖武両朝に仕えた官人・歌人。
「青によし奈良の都は咲く花の匂ふがごとく今さかりなり」の歌が有名。

毛野 (?-714)
奈良時代の中納言。持統朝では遣新羅使に任ぜられる。(695)

小町
平安朝の女流歌人で六歌仙の一人。伝説は多いが史実は不明。

(802-852)
平安の漢学者、歌人。参議。清原夏野らと撰修した『令義解』の序文を書く。(833)
遣唐副使となるが2度の失敗の後、3度目の乗船を拒否し遣唐を諷刺したため嵯峨上皇の怒りに触れ隠岐国に配流される。(837)
小倉百人一首の「わたの原八十島かけて漕ぎ出でぬと人にはつげよ海人の釣舟」はこのとき詠んだもの。
840年、京に召還され、参議となる。(843)

恆柯 (802-860)
平安前期の官僚・書家

春風
平安初期の武人。陸奥鎮守将軍。

道風 (894-966)
平安中期の書家。三蹟の一人。

岑守 (778-830)
平安前期の官僚・文人。参議。
『凌雲集』を編纂。(814)
『内裏式』の編纂に参画。(821)
九州の旅人のための救済施設として統命院を建立。(824-833)

義材 (?-902)
平安前期の歌人・書家。

好古 (884-968)
平安中期の武官。
山陽・南海両道追捕使として、純友の乱を平定する。

諸文献と生没年等を参考にわたしなりの仮説をたてた。勿論証明することはできません。

簡略すると以下のようになります。
毛野━老━竹良━永見━岑守━篁━保衡━諸典━隆泰
つまり大筋『古代氏族系譜集成 上巻』(編:宝賀寿男、発行:古代氏族研究会[1986])支持といったところでしょうか。
ポイントとしては、毛野と永見を親子とするには時代が離れ過ぎていることと、隆泰を時季の子とするには篁から時季までの世代数にくらべ年数が少なすぎるという点です。ちなみに、隆泰の孫とされている横山資隆は1004年に小野牧の別当に補任されている。『日本史小百科<武士>』(編:下村効、発行:(株)東京出版堂[1993])より
また、同書によれば、931年に小野諸興なる人物が小野牧別当に任ぜられている。この人物は小野氏の系図には出てこないが諸典と同一人物ではないかと勝手に想像している。


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