中世、日本各地で大武士団が結成されているころ、北関東では数多くの中小武士団が独立して党を結成していた。『日本史小百科<武士>』(著:下村効、発行:(株)東京堂出版[1993])では、天仁元年(1108)の浅間山噴火による田畑の壊滅にともなう荘園開発ラッシュのため、領主が多く集中したと推測している。
その北関東の党で有力なものを武蔵七党と称する。この七党のうち、横山党と猪俣党が同族で、小野氏から出ているとされている。
ただし、この根拠となっている『武蔵七党系図』は信憑性が薄く、党の結束のため作られたと考えられている。
一方で、『武蔵武士−そのロマンと栄光−』(著:福島正義、発行:(株)さきたま出版会[1990])によれば、横山、猪俣両党に小野氏の野をとって称としている者が多く、一族的に関係を持っていたことは否定できないとしている。
同書はまた、小野氏とのつながりとして、小野牧の存在をあげている。
武蔵は全国的に屈指の牧場地帯で勅旨の小野牧が確認されているが、『政事要略』所載の太政官符より承平元年(931)11月7日に小野諸興なる人物が小野牧別当に任ぜられているという事がわかる。横山資隆が寛弘元年(1004)7月29日に小野牧別当に補任されていることからも、小野諸興は横山党の祖先とみて支障はないとしている。ただし、『武蔵七党系図』に諸興の名は出てこない。
そこで、前回述べたように諸興=諸典=隆泰の父説を勝手ながら唱えている訳です。
この場合、横山資隆は小野諸興の曾孫となり、同じ役職についた歳がほぼ同じとすれば年齢差は約70数歳となる。1世代差が約24歳前後。非常に都合がよいのである。都合がいいからと言って歴史をねじ曲げるのはどうかと思うが、あくまでも仮説なので御了承ください。
ところで、小野−猪俣−岡部の流れだが、武蔵守孝泰(小野隆泰)の孫である野五郎時範が武蔵国児玉郡猪俣(埼玉県那賀郡美里村猪俣)に住居し猪俣氏を称し、
その猪俣時範の孫である六大夫忠綱が武蔵国榛沢郡岡部(埼玉県大里郡岡部町)に移り岡部氏を称する。ただし、同族のため猪俣党として活躍していた。
中でも特筆すべきは、岡部忠綱の孫で、源頼朝に従い一の谷の合戦で平氏武将薩摩守忠度を討った岡部六彌太忠澄である。
(『全国名字辞典』(著:森岡浩、発行:(株)東京堂出版[1997])より)
Climbing the Hill | 006 | 008