正義派の大御所周布政之助の師で、明治維新の導火線ともいわれる村田清風が、高祖父河北一の大伯父にいる。
妻は進藤勘蔵の娘梅子、長男信吉(多病廃嫡)、長女智恵(久芳内記妻)、次男大津唯雪、三男松之助(早世)、次女駒(甥竹内正兵衛妻)、三女雎鳩(長沼功介妻)。
以下、『明治維新人名辞典』(編:日本歴史学会、発行:(株)吉川弘文館[1981])、『増補近世防長人名辞典』(著:吉田祥朔、発行:マツノ書店[1976])より。
村田清風
天明3(1783).4.26-安政2(1855).5.26 (73)
諱:清風、初め順之、将之
称:四郎左衛門、亀之助、新左衛門、織部
字:子則
号:松斎、嘯雨、東陽、梅堂、大津郡三隅住
生:長門国大津郡三隅村沢江
身:萩藩八組士、江戸当役用談役
禄:161石
贈:正四位
村田清風は四郎右衛門光賢の子、天明3年大津郡三隅に生る、名は初め順之、後に清風に改め通称四郎左衞門晩に織江と称す、松斎と号し別に俳号を嘯雨という、資性弘毅俊爽経綸の材に富む、幼時より明倫館に学ぶまた江戸に在りて塙保己一に国書を問い更に兵学を講究しまた泰西の諸事に渉猟す、藩主毛利斎房より敬親に至る五代に暦事し近侍より累進して奥番頭格に至り参政に列し或は行相府に在りて地方の機務に鞅掌し民政の改革文武の奨励兵制の拡張等に力を効すこと前後凡そ50年に及ぶ、其の功績枚挙し難し弘化2年老いを告げて致仕し三隅の旧居に帰る、これより先その居宅に文武講習所を設け子弟の教養に充つ扁して尊聖堂と曰う、是に於いて邑子弟の業を励む者益々盛なり、当時泰平の久しき士気の衰頽せるを概して人材の陶冶に尽す所あり、安政2年復召されて用談役となり国務に参与す、時に老い功高きを以て藩主の優遇特に渥く杖輿城に入るを許さる、清風亦感激一意報効を期し一藩の重きをなせしが、同年5月26日遽かに宿痾を発して萩に歿す、年73。明治24年4月贈正四位。
系: ┏━信吉 ┃ ┣━久芳智恵 ┏━清風 ┃ ┃ ┝━━━━━━╋━大津唯雪 ┃ 梅子 ┃ ┃ ┣━松之助 ┃ ┃ ┃ ┣━竹内駒 ┃ ┃ ┃ ┗━長沼雎鳩 ┃ ┃ 河北信藏 嶺村素輔 村田光賢 ┃ ┝━━━━━一 ┝━━━━━一枝 ┝━━━┻━山田市郎右衛門━━フキ ┝━━━━━俊 ┝━━━━━母 岩子 伊登 貞子
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