016 大津唯雪 2001.12.23 (変更2002.6.2)

村田清風次男、大津唯雪は、高祖父河北一の祖父山田市郎右衛門の甥にあたる。
長兄信吉多病廃嫡につき相続し、大津に改称。
『山田顯義傳』(編、発行:日本大学[1963])によれば、唯雪の妻清子は山田亦介の娘、つまり山田市郎右衛門の孫とあるが、『村田清風全集』(編、発行:山口県教育会[1961])では、高橋信次女で後妻福原太郎兵衛女とある。また、『明治維新人名辞典』(編:日本歴史学会、発行:(株)吉川弘文館[1981])の嫡子大津光太郎の項には、母は高橋信次祖母キヨとある。
以下、『明治維新人名辞典』(編:日本歴史学会、発行:(株)吉川弘文館[1981])より。

大津唯雪
文政8(1825).7.9-明治20(1887).4.3 (63)
諱:忠之、唯雪
称:次郎三郎(村田)、四郎右衛門(大津)
号:酒仏、鱸庵
生:長門国萩
身:萩藩八組士、毛利家編輯掛
禄:161石
贈:従四位

嘉永5年物頭役となり、翌6年江戸藩邸に在勤し大森警備、安政元年帰藩し赤間関在勤、3年総奉行手元役・長崎聞役、5年山口代官役、文久元年蔵元両人役を歴任し、2年山田亦介と上京し、京都留守居役となり、ついで行幸親征の道筋取調のため宍戸左馬介と紀伊・大和の地勢を踏査した。同3年八月の政変に七卿を護して帰藩、元治元年恭順派に幽囚され、慶応元年赦にあい、明倫館頭人山口詰となり、2年山代代官、明治元年美禰代官、ついで公用人役として上京、2年山口市令となった。16年東京に行き毛利家編輯掛となり、のち病死した。年63。

系:
                                                   ┏━村田峰次郎
                                                   ┃
                                                   ┣━進藤梅
                                                   ┃
                                                   ┣━秀
                                                   ┃
                                                   ┣━宗久多賀
                                                   ┃
                                                   ┣━村田石
                                           光子    ┃
                 ┏━清風                  ┝━━━┻━土岐叔
                 ┃  ┝━━━━━━━━━大津唯雪
                 ┃  梅子                ┝━━━━━━光太郎
                 ┃                      清子
                 ┃
                 ┃                      河北信藏                  嶺村素輔
       村田光賢  ┃                      ┝━━━━━━一          ┝━━━━━一枝
       ┝━━━━┻━山田市郎右衛門━━━フキ          ┝━━━━━俊          ┝━━━━━母
       岩子                                            伊登                    貞子
       


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