大津唯雪の長男光太郎、次男村田峰次郎は、高祖父河北一の再従兄弟
二人は異母兄弟で光太郎の母は高橋信次の娘清子(『山田顯義傳』では山田亦介の娘)で、峰次郎の母は福原頼完の娘光子。
光太郎の妻は山田亦介女綾子、長男亀若、次男山田武次郎(山田正通嗣子)、長女簾(熊野隆治妻)、次女鈴(山本六郎妻)。
峰二郎の妻は東條頼介長女喜久子、長男十九郎、次男廿二郎、長女墾(今井三郎妻)、三男得三郎(帆足氏を継ぐ)、四男三四郎、次女成子(勝間田正造妻)。
以下、『明治維新人名辞典』(編:日本歴史学会、発行:(株)吉川弘文館[1981])より。
大津光太郎
嘉永2(1849).12.5-明治27(1894).2.1 (46)
称:光太郎
生:長門国大津郡三隅村沢江
身:萩藩八組士
元治元年山口明倫館文学寮に入り、慶応元年干城隊に加わり歩兵塾に入り、また小郡農兵半隊司令士、第四大隊半隊司令士、総条銃第一大隊半隊司令士となり、2年の幕長戦に芸州口に出陣、三田尻表守衛・石州浜田守衛を経て3年帰陣し、山口兵学校へ入って大村益次郎に従学した。明治元年英学修行のため三田尻洋学塾の米人ベテルに学び、ついで海軍学校へ入って舎長となり、2年東京に行き英学を箕作鱗祥に学び、3年山尾庸三に随学して横須賀造船所で器機学を修め、4年横浜の米人バラおよびウォルフらについて英語を専修した。すでにして病に罹り東京で病死した。年46。
以下、『増補近世防長人名辞典』(著:吉田祥朔、発行:マツノ書店[1976])より。
村田峰次郎
安政4(1858).7.24-昭和20(1945).12.29 (89)
諱:春信
称:峰次郎
号:看雨
生:長門国萩
身:維新史料編纂会顧問
村田峰次郎名は春信、看雨と号す、贈従四位大津唯雪の次男にして村田清風の孫なり、出でて宗家村田九兵衛の跡を襲ぐ、安政4年萩に生れ、初め明倫館にて学び、明治に入り東京に出で更に諸名家に就き和漢学並びに英独等の語学を修む、同17年内閣に出仕して伊藤公の憲法制定事務に参加し、次いで衆議院属に転ず、既にして26年辞職して毛利家に入り藩史編輯を主宰す、然るに同30年同家を辞してこれより又仕官せず専ら意を鉛槧に留めのち維新史料編纂会の顧問となりまた伊藤公伝記の編纂に与って功あり、資性清高頗る乃祖の風を伝え、その学博洽殊に防長の故事に精通し嘗て長周叢書を刊行して世に便せり、其の著述に甲子殉難士伝品川子爵伝近世防長史談等の外なお数多あり、昭和20年12年29日相州逗子の客寓に歿す、年89。
系: ┏━十九郎 ┃ ┣━廿二郎 ┃ ┣━今井墾 ┃ ┣━帆足得三郎 ┃ ┏━村田峰次郎 ┣━三四郎 光子 ┃ ┝━━━━━┫ ┏━清風 ┝━━━┛ 喜久子 ┗━勝間田成子 ┃ ┝━━━━━━━━━大津唯雪 ┃ 梅子 ┝━━━━━━光太郎 ┏━亀若 ┃ 清子 ┝━━━━━┫ ┃ ┏━綾子 ┣━山田武次郎 ┃ ┏━亦介━━━┛ ┃ ┃ ┃ ┣━熊野簾 ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┗━山本鈴 ┃ ┃ ┃ ┃ 河北信藏 嶺村素輔 村田光賢 ┃ ┃ ┝━━━━━一 ┝━━━━━一枝 ┝━━━━┻━山田市郎右衛門━┻━フキ ┝━━━━━━━━俊 ┝━━━━━母 岩子 伊登 貞子
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