河北勘七は祖父嶺村一枝の伯父にあたる。
妻は楊井清八長女栗(前原一誠の妻綾子の姪でもある)、子は、東一郎。
除籍謄本によれば、初め中村家の養子となったようだが、明治26年に廃家復帰し翌年河北家を相続している。
昨今の景気低迷で倒産寸前の企業や不良債券まみれの銀行などに照らし合わせるとその仕事ぶりには恐れ入るものがある。
ちなみに、小野田セメント株式会社、株式会社百十銀行はそれぞれ合併などにより、現在の太平洋セメント株式会社、株式会社山口銀行となっている。
以下、『増補近世防長人名辞典』(著:吉田祥朔、発行:マツノ書店[1976])、『近代防長人物誌』(編:井関九郎、発行:マツノ書店[1987])より。
河北勘七
元治1(1864).7.26-昭和11(1936).2.5 (75)
身:政治家、実業家
河北一の長子、明治の初め上京して法律を修め同20年白耳義ブラッセル大学に留学政治学を専攻し帰朝の後衆議院議員に当選す、在職中官有原野下戻の事に尽力しまた三国干渉問題起るや対外硬を主張す、その後山田岡諸氏と日本遠洋漁業会社を創め諾威式捕鯨業を開始す、また小野田セメント会社の社長、百十銀行監査役等となりその事業の整理拡張に尽くせり昭和11年2月5日歿、年73。
明治34年の頃、小野田セメント株式会社が事業失敗の結果、株主総会にて整理委員を設けることを決定せり、此の時河北君は其の委員長に挙げられ、拮据半歳殆んど収拾すべからざる約60万円に近き負債を全く整理し、漸く整理をするに当りて、故井上侯の推薦に依りて社長に就任するや、思へらく、従来の整理は片付たものの一文の運転資金なく、職工賃は三ヶ月も滞り、何一つ買ふにも現金ならざれば売るものなく、惨々憺々たる大破綻の跡は眼も当てられぬ有様にて到底実務に当ること能はず、茲に於いてか、君は再び上京して故井上侯に懇談して10万円を携へて帰れり、直ちに職工賃は支払ひ買掛りは滞りなく払い渡し、会社の煙突からは再び熾んに黒煙を吐き出すと云ふ風にて、久しく落寞せる小野田町は俄に活気付き、...
又株式会社百十銀行が、小野田セメントの破綻と前後して頗る危機に頻するや、一大整理を行はずんば、将に破産の状態に立ち至らんとし、遂に300万円の回収不可能の貸出金あるを調査し、之が整理を提議絶叫し初めしは時の同行監査役河北君なりき、故井上侯は此の難局に当らしむ可く室田義文氏を起たしめたり、斯くて室田氏は百十銀行頭取に就任以来、九州其の他に銀行の抵当となり居れる鉱山及土地を毛利家に譲渡して約230万円を引き出し、...
...而して君が常務としての当時の百十は其の手腕を揮ふべく業態が余りに地味なりしとの世評ありしが、故桂公の斡旋により財界の巨王たり三菱系との結托成るに及び遂に二氏(当時の頭取武弘氏と河北)は前掲の難物たる70万円を始末し、同行の大整理を決行することを得たり、...
系: 岡村タケ ┝━━━━東一郎 ┏━勘七 ┃ │ ┃ 栗 ┃ ┃ 嶺村素輔 河北一 ┃ ┝━━━━━一枝 ┝━━━━┻━俊 ┝━━━━━母 伊登 貞子
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