031 前原一誠 2002.7.14

萩の乱の首謀者として知られる前原一誠は高祖母河北伊登の兄。
妻は楊井孫右衛門の女綾子で、綾子の姪栗は伊登の長男勘七の嫁である。
子はなく、弟山田頴太郎の次男昌一を養子とした。
ここでは、表面的な紹介に留めるが、一誠については調べれば調べるほど、彼の真面目な性格が浮き彫りになって非常に魅力的で奥が深く、吉田松陰が誠実さについては久坂玄瑞や高杉晋作よりも上と評したのもわかるような気がする。

以下、『明治維新人名辞典』(編:日本歴史学会、発行:(株)吉川弘文館[1981])より。

前原一誠
天保5(1834).3.20-明治9(1876).12.3 (43)
諱:一誠
称:八十郎(佐世)、彦太郎、一誠
字:士明、子明
変:米原八十槌、米原直蔵、米原誠蔵、原狷介
号:古心、黙生、黙宇、松処、梅窓、太虚洞、狐洲、行屍散人、斃休斎、椿東、寸晦
生:長門国萩土原村馬場丁
身:萩藩八組士 参議
禄:47石5斗
贈:従四位

天保10年父の厚狭郡船木村出役に従い移居し、武術を幡生周作に、文学を国司某・岡本栖雲に学んだ。嘉永2年福原冬嶺に従学したが、翌年帰萩のとき落馬のため長病を患い、武技を捨て再び船木に住して写本に努めた。安政4年父に従って帰萩、吉田松陰に師事し、6年2月長崎に遊学して英学を修め、6月帰って博習堂に学び、万延元年病気のため博習堂を退き、文久元年練兵場舎長となり、2年脱藩上京して長井雅楽の暗殺を謀ったが果さず、8月江戸に行った。同3年正月また上京、6月右筆役となり、7月攘夷観察使の東園基敬に従って時山直八と紀州に行き、八月十八日の政変に帰国して七卿の用掛となった。元治元年下関で外艦と戦い、12月高杉晋作と下関新地の会所を襲い、慶応元年正月恭順派藩庁軍と美禰郡に戦った時、諸隊総会計を勤めた。同年3月用所役右筆となり、前原姓を名乗り、干城隊頭取を兼ね、5月国政方に転じ、2年2月下関越荷方となり、6月幕長戦に小倉口の参謀心得として小倉藩降伏に尽した。同3年12月小姓筆頭となり海軍頭取を兼ね、明治元年6月北越出兵の干城隊副督となり、蔵元役を兼ね、萩から越後柏崎に上陸、7月越後口総督の参謀となって長岡城攻略に尽した。2年2月越後府判事となり、6月戊辰戦争の功により永世禄600石を賜わり、7月参議に任じ、12月兵部大輔となり、3年9月辞職し、10月病気静養のためと称して萩に帰った。9年10月奥平謙輔・横山俊彦らと党を集め、天皇に訴えて朝廷の奸臣を掃うための東上軍を起したが、事敗れて11月島根県宇竜港で捕えられ、ついで萩で斬首された。年43。

系:

          ┏━前原一誠
                ┃  │
                ┃  綾子
                ┃                嶺村素輔
                ┃  河北一        ┝━━━━━一枝
    佐世彦七    ┃  ┝━━━━━━俊          ┝━━━━━母
    ┝━━━━━┻━伊登                      貞子
    末子
                           

Climbing the Hill | 030 | 032


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