035 来原良蔵 2002.9.15

高祖母河北伊登の高祖父佐世政如の弟が来原良蔵の高祖父盛之である。
前原一誠は一時期、異父姉の嫁ぎ先である国司家に寄宿していたが、義兄右内が亡くなったためか、後に来原良蔵の家に寄宿している。このことから、来原家は母方の鷲津家か国司家ともより近い縁があったのかもしれない。
良蔵の養父良左衛門は叔父で、母伊代の妹利尾の夫である。
良蔵の妻峯は、木戸孝允の妹で子は、長男孝正、長女經、次男正次郎。正次郎は孝允の養子となったが28で没したので孝正が継いだ。

以下、『明治維新人名辞典』(編:日本歴史学会、発行:(株)吉川弘文館[1981])より。
来原良蔵
文政12(1829).12.2-文久2(1862).8.29 (34)
諱:盛吉、盛功
称:幸四郎(福原)、良蔵
生:長門国阿武郡福井上村石原
身:萩藩八組士
禄:73石
贈:従四位

初め福原冬嶺に学び、天保12年明倫館に入り、13年12月来原良左衛門盛郷の養子となった。嘉永4年2月江戸に行き、5月安積艮斎に従学して5年帰萩した。同6年正月先鋒隊に入り、6月米艦来航に江戸に行き7月浦賀の形勢を視察し、8月森重武兵衛に水軍砲術を学んだ。安政元年正月来島又兵衛らと忠義会を結んで誓約し、ついで相模警衛の任についた。同年8月浦賀奉行支配組与力中島三郎助の門に入って合薬製造掛となり、12月先鋒隊除隊を許された。同2年3月帰萩、10月また江戸に差遣されて江戸番手となり、手廻組に加えられて密用方右筆役を勤め、末家岩国の内用掛を兼ねた。同3年3月帰萩、6月周布政之助らの嚶鳴社復興に参加し、10月藩祖毛利元就らの記録編輯を命ぜられた。同4年正月再び相模警衛地に差遣され、作事吟味役を勤めた。同5年2月帰萩、12月御手当方内用掛となり、長崎へ出張して蘭人の直伝習を受け、6年6月帰萩した。同年9月明倫館助教兼兵学科総督となり、山田亦介と軍制改革に尽し、11月江戸に行って有備館の文武諸業御用掛を勤めた。また西洋銃陣の改革のため万延元年5月帰萩し、9月御手当御内用掛として明倫館助教を兼ねた。文久元年6年明倫館へ中島名左衛門を招聘して従学し、2年正月徳地宰判の民情を視察、2月公武周旋のため熊本・鹿児島へ出張、3月上京して留まり、藩老長井雅楽を除くため奔走した。同年8月江戸に行って横浜の外人襲撃を謀ったが、藩世子に過激を誡められ、ついに国論誤解の責任を感じて桜田藩邸の自室で切腹した。年34。

系:
  
                                                      嶺村素輔
                                            河北一    ┝━━━━一枝
  米原政道━┳━佐世政如━━如章━━彦七    ┝━━━━俊        ┝━━━母
           ┃                      ┝━━━伊登                貞子
            ┃                      末子
            ┃
            ┃               福原光茂      ┏━木戸孝正
            ┃       来原盛温    ┝━━━━来原良蔵 ┃
            ┃       ┝━━━盛任━━伊代   ┝━━━━╋━經
            ┗━来原盛之━━菊            峯    ┃
                                      ┗━木戸正次郎






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