Judea’s Kiss


Judea’s Kiss −第3話−
◆1◆

いつもだったら退屈なホームルーム。
今日は少しだけ違っていた。

2時間目後の騒ぎが収まった後、
放課後直前のこの時間までその話題が学校中から消えることはなかった。

「……と言う訳で、くれぐれも今回の出来事を校外の者に話すことの無いように」

学校側としては箝口令を出して、問題が表に出ないようにする事が第一なのだろう。
担任の教師はそう言うと教室を出ていった。

「那緒、ちょっといいかなぁ……?」

帰り支度をしている那緒に、後ろからそう呼びかける声があった。
振り向くと胸元まで届く綺麗な黒髪をした少女――平河 紗耶(ひらかわ さや)が、
制服の上衣の裾を引っ張ったり、毛先を指で弄んだりと落ち着かない様子をしていた。

「どうしたの、紗耶?」
「あっ……あのね……あの今日の騒ぎの時、浦野くん達その場にいたんでしょ?
 その後すぐに帰っちゃったけど、葉月くん大丈夫だったのかなぁ? ……あ、それと神村さんも」

一息にそれだけ言うと、紗耶は耳どころか首筋まで真っ赤にして俯いた。
そんな紗耶の様子を見て、那緒は悪戯っぽい笑みを浮かべて、

「ホントに、紗耶ってわかりやすくて可愛いよねぇ。
 心配なのは神村さんじゃなくて、桐弥くんでしょ?」
「……えっ、ええっ!? そんなことないよっ、2人とも心配だよ」
「顔真っ赤にして、そんなどもってても説得力無いよぉ。
 ほれほれ、白状しちゃいなさい、紗耶」
「もうっ! からかわないでよ」

そう言うと、周りの眼が気になるのかキョロキョロと落ち着かない様子で見回した。

「ここじゃ何だし、場所変えようか? あ、ちょっと待っててね」

那緒はそう言うなり、大貴の席に駆け寄った。
窓際の日だまりで、伸ばした腕を枕に幸せそうに眠っている大貴の肩を揺すると、

「……ぅん? 那緒? ……おはよ」

まだ寝ぼけているのか、眼を擦りながらいつもにも増してのんびりと言った。

「大貴くんったら。もうホームルームも終わったよ。ほら起きて起きてっ」

大貴の右腕を両手で掴むと、元気良く上下に揺さぶった。

「わかったって、もぅ眼は醒めたよ。それじゃ帰ろうか?」

柔らかな髪をかき上げて、微笑みながら大貴は立ち上がった。

「それがね、今日はちょっと紗耶と用事があるんだ……ゴメンね」

普段は人前では快活な様子の那緒が、不安とほんの少しの罪悪感を湛えた眼で大貴を見つめていた。

「謝ることなんて無いって。ちゃんと相談乗ってあげなよ」

微笑みを更に優しいものに変えて、那緒の肩を軽く叩くと鞄を掴んで教室を出ていった。

「浦野くんって本当にいつも優しそうだよね。那緒が羨ましいなぁ……」

2人のやりとりを見ていた紗耶が、ふうっとため息をついた。

「取っちゃダメだよっ。わたし達、今すっごくうまくいってるんだから」

那緒はいつもの明るい声で笑いながら、冗談めかしてそう言った。

「紗耶、それじゃわたし達も場所変えよっ」
「……う、うん」

頷きながらも大貴の出ていった教室の扉を見つめながら、紗耶はふと気になった。

(……浦野くん寝てたんだよね? なんで相談事ってわかったのかな?)


◆2◆

――カランカラン
ドアベルの音が心地よく鳴り響く。

「いらっしゃい。 ……おや? また寄ってくれたのかい?」

グラスを磨きながら、マスターはほんの少し驚いた表情をしていた。

「今日はちょっとこの娘と相談なんですっ」

笑いながら明るく答える那緒。

「……こ、こんにちわ」

緊張した様子で挨拶をする紗耶。

「何にしようかなぁ? 朝と一緒っていうのもつまんないし……」

メニューに眼を走らせながら那緒が言うと、

「……那緒って、ここによく来てるの?」

紗耶がそんなことを聞いてきた。

「うん、お気に入りなんだっ。お店の雰囲気も、メニューの味もね」

メニューから顔を上げて、嬉しそうに話す。

「知らなかった、学校のこんな近くにこういう喫茶店があるなんて……」

店内を見回しながら紗耶が呟くと、

「穴場だからね。それに学校から近いっていっても、
 駅とは逆方向だし、まわりに何か買い物できる場所があるわけじゃないから、
 こっちの方に来る生徒って少ないんじゃないかなぁ?」

またメニューとにらめっこしている那緒が答えた。

「決ーめたっ。わたし、カフェオレにする。紗耶は何にする?」
「あ……レモンティーがいいかな」
「すいませーん、マスターっ。レモンティーとカフェオレ下さーいっ」

湯気の立つカップをテーブルに置くと、

「すまないけど、私はちょっとガレージの方に行ってるから、
 何かあったら呼んでもらえるかな?」

マスターはそう言い残すとエプロンを外しながらカウンター脇のドアから出ていった。

「気を使ってもらっちゃったな。けど、これで心おきなく桐弥くんの話が聴けるね」

カフェオレに砂糖を入れながら那緒はそう言った。

「……話さなきゃ……ダメ?」

カップを両手で包みこむようにして、紅茶を口にしていた紗耶が聞くと、

「ダーメっ。逃がさないからね」

那緒はくすくすと笑いながら紗耶を見つめた。
その時、窓の外を何かが通り過ぎ、入り口の脇に停まった。

――カランカラン
ドアベルが来訪者の訪れを告げた。
右手にヘルメットを提げている。

「あれ? マスターはどこ行ったんだ?」

レザーのブルゾンを脱ぎながら桐弥は店内を見回した。

「ええっ!? 桐弥くん?」

入り口の方を振り向いて、那緒は驚いた表情を隠さずに言った。

「……あっ。葉月くん……」

その姿を確認すると真っ赤になって俯いてしまう紗耶。
桐弥はカウンターの椅子の背にブルゾンを掛け、カウンターの上にヘルメットを置くと、

「平河さんも藤代も、何をそんなに驚いてるんだよ。それより、マスターどこ行ったのか知ってる?」
「マスターならガレージに行ってるみたいだけど……タイミング悪すぎだよぉ、桐弥くん」

那緒はちょっと残念そうな顔をしていた。

「何のことだよ、それ?」

状況を理解できない桐弥が訊いた。

「なっ、何でもないんですっ。ホントにっ」

それまで俯いたままだった紗耶が、跳ね上がるような勢いで答えた。
いつも物静かな紗耶の、その激しい口調にすこし面食らった桐弥だったが、
さほど気にした様子もなく、ガレージの方へ向かっていった。

「なんで桐弥くんがまだここにいるの?」

カウンターでコーヒーを飲んでいる桐弥に那緒が声をかけた。

「なんで……って、朝言っただろ、帰りにバイク取りに来るって」
「けど、午前中にはもう学校から帰っちゃったのに」

そう言われると、桐弥は苦笑いを浮かべて、

「まぁそうだけど、イジったとこの最終チェックと試運転してたら、この時間になっちゃってさ」
「ふぅん、そうなんだ」

那緒は、まだどことなく納得しきれない面持ちだった。

「それで試運転してみて、感想はどうだい?」

シュガーポットに砂糖を詰めながらマスターが聞いてきた。

「うん、今までとは段違いにブレーキが効くようになったね。
 サスはこれからセッティング出していかないといけないけど、動きは良くなってるみたいだし」

桐弥は、満足げな表情をして答えた。

「よくわからないけど、調子よくなったんでしょ。
 それなら今度、紗耶を後ろに乗っけてあげてくれない?」

そんな突然の那緒の発言に、

「那、那緒っ……!」

紗耶は驚くことしか出来なかった。

「平河さんが乗りたいなら、別に俺は構わないけどね」

那緒はその返事を聞くと、

「わたしは大貴くんの後ろに乗れるからいいけどさ。
 バイクって乗ってると気分がいいじゃない。
 その話をしたら、紗耶も1度でいいから乗ってみたいんだって」

聞かれもしないのに理由を話し始めた。

「ふーん、そうなんだ。でも、平河さんがバイクに興味あるってのはちょっと意外だなぁ。
 あ、けど後ろに乗るときでも危ない乗り物なのは変わらないから、
 その時はスカートじゃなくてズボン履いてきてね。あと靴もスニーカーとかの方がいいな」

飲み終えたカップを置きながら桐弥が言うと、
紗耶は信じられないといった表情で頷いた。

「それじゃ都合のいい時にでも連絡してよ。ケータイの番号教えるからさ」

桐弥が帰った後、紗耶は手帳に書かれた桐弥の電話番号を何度も確かめていた。
2人も『フォレスト』を出て、駅に向かう帰り道で紗耶が聞いてきた。

「那緒…… 今日あったこと嘘じゃないよね?」
「大丈夫っ、全部ホントだよ」

そう言って那緒は笑いかけた。

「ありがとね、那緒……」
「けど、今日は紗耶の話は聴けなかったよねぇ、近い内にちゃんと聴かせてよ」
「大貴くんとの話も聴かせてくれたらね」

紗耶が答えると2人は顔を見合わせて笑った。


◆3◆

イグニッションにキーを差し込み、捻る。
秒瞬の後、大排気量車特有の低く重い排気音と共にエンジンが目を覚ます。
エンジンの暖気をしている間の一服。
紫煙をくゆらせながらシートにもたれかかって、意識が覚醒していく様な感覚。
この時間が桂は気に入っていた。

「さぁて、そろそろ桐弥を迎えに行くか」

誰に聞かせるでもなく呟くと、クラッチを踏み込み、1速に入れる。
スピーカーから流れるadamFを聴きながら、
桂は穏やかにスープラを走らせていった。

――TRRRRR...TRRRRR...
ベッドの上に放り投げてあった携帯電話が、持ち主を呼んでいた。
着信には『神村 桂』と出ている。

「もしもし」
「あ、桐弥? 俺だけど、もう到着したから」
「ん、わかった。いつもの場所にいるのか?」
「ああ、入り口の向かい側の自販機の前にいるから」
「じゃあ今下りてくから、ちょっと待っててくれよ」
「了解っ」

マンションの敷地を出ると正面に桂のスープラが停まっていた。

「お待たせっ、今日はどこに行く?」

そう言って桐弥が助手席に乗り込んだ時、
桂は口許に人差し指を立てて『静かにしろ』ってジェスチャーを見せた。

(――ん? ・・・なんだ電話中か)

桐弥が桂の方を見ると、確かにケータイで話している最中だった様子が見て取れた。

「……うん。だから今日はちょっとムリなんだ、悪いね。
 また明日にでも俺からTEL入れるよ。それじゃ」

桂が話を終えると、桐弥は呆れた様な顔をして、

「まったく…… 相変わらず手が早いと言うか、広いと言うか。
 今度はどんな娘なんだ?」

桐弥の方を見ることなく苦笑いを浮かべつつ、車を発進させる。

「今度は……って、それじゃまるで俺が節操無しみたいじゃねーかよ」
「まぁったく、自覚してないのかよ。この4月からの半年間で何人の娘に手ぇ出したよ?」
「そんな昔のことは忘れたよ」
「そのセリフって、『カサブランカ』のハンフリー・ボガードだろ」
「桐弥ぁ、お前もよくそんな古い映画知ってるよなぁ。 ……まぁ俺も人のことは言えないけど」
「……それで? どんな娘なんだよ?」

――キンッ! 
甲高い金属音を響かせる使い込まれたZippoで、桐弥は煙草に火を点けながら訊いた。

「その内、機会があったら話すよ……」

返事をした時の桂の横顔は、桐弥にはどこか疲れている様に見えた。


◆4◆

薄暗い店内に響く音。
ジュークボックスから流れるジャズ。
傾けたグラスと氷の触れあう微かな囁き。
台の上を縦横に駆け回るボールが刻むリズム。

キューを壁に立てかけて、その傍らでジントニックを呑みながら桐弥は昼の騒ぎを思い出していた。

(……村岡ってヤツ、クスリをやってたのは間違いない。
 でも、あのトび方を見ると、『葉っぱ』とか『ヘレン』じゃないと思うが。
 ……幻覚剤? って言うと『アシッド』か? けど、そんな簡単に手に入るモノなのか?)

「うわっ、ミスっちまった!」

桂の声で現実に引き戻される。

「おーい、桐弥。お前の番だぞ」

頭上にキューを掲げ、まるで鉄棒に掴まっているような格好で桂が戻ってきた。
テーブルの脇まで戻ってくると、杖のように身体をキューに預けながら、
泡を立ち上らせているジンジャーエールのグラスに手を伸ばす。
ストゥールから動かない桐弥に気付くと軽く頭を小突いた。

「なにボーっとしてるんだよ? なんか考え事か?」

桐弥は、はっと顔を上げて桂の方に向き直ると、ストゥールから立ち上がった。

「いや、ちょっとな……」

キューを掴んで台に向かいながら、何か迷っているような歯切れの悪い返事をする。

「スッキリしねぇ返事だな。どうしたんだよ?」

桐弥が今まで座っていたストゥールに腰掛けて、ナッツを囓りながら桂は訊いた。

「いや、今日のあの騒ぎ…… 村岡って言ったよな。
 アイツはドラッグに手ぇ出すようなヤツだったのか?」

ボールの配置を眺めながら話す決心をつけたのか、桐弥は桂に質問する。

「んっ? 昼間も言ったと思うけど、去年は確かに同級生だったけどな。
 村岡自身もツルんでる連中も、俺とはすこぶるセンスが合わなかったから、
 仲がいいってワケじゃなかったし、そんなに詳しいトコはわかんねえけど……」
「けど?」

台の上から視線を外すことなく訊き返す。   

「正直、手ぇ出しててもおかしくは無いような連中だな」
「ふぅん…… じゃあこれからも今日みたいな騒ぎが起きる可能性があるってことか……」

上体を屈めてキューを構える桐弥から、既に迷いは見えなかった。
――カンッ! 真っ白い手玉が5番ボールをかすめて、勢いを殺すことなく9番を捉える。
2度、3度とクッションを重ね、徐々にスピードが削がれていく。 
……ゴトッ。 最後の力を振り絞るようにポケットに沈み込む9番ボール。

「今日の戦績はこれで4勝2敗。ここの勘定はお前持ちだな、桂」

口許に笑いを浮かべて桐弥が言うと、

「ちっくしょう、何であんな難しいのが1発で決まるんだよ」

未だ信じられない様子で桂が文句を言う。

「さっさと勘定済ませてこいよ、愚痴ってるのは往生際悪いぜ」
「わかったよ。じゃあ先に行ってエンジンかけといてくれよ」

出入り口のドアに向かおうとしていた桐弥を呼び止め、桂はキーホルダーを放り投げた。

「OKっ」

桐弥は右手でそれをキャッチすると駐車場に向かった。

エンジンに火を入れ、外に立つと天を見上げる。

(……色々なことがあった1日だったな)

街の灯りの所為で、とても満天の星空とは言えない夜空を見ながら
桐弥は考えを巡らせていた。
……煙草を足で踏み消す。しかし、まだ桂は現れなかった。

「いくらなんでも遅すぎるだろ……」

呟くと、キーを抜いて先刻の店に向かって駆け出した。


―――この長い長い夜は、まだ始まったばかりだった。


         ――It comes after Next Story...


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