Judea’s Kiss


Judea’s Kiss −第6話−
◆1◆

――時間は少し遡る。

空気の中に微かに漂うガソリンの匂い。
暗がりの中に伏せたままの一人と一台。
怖いくらい静かな空間に、微かに音が伝わり始める。
それは徐々に大きくなっていった。
音と共に近づく一条の光明、
それが動きを止めた後、一つの人影が光から離れた。
その人影はひどく慌てた様子で、ヘルメットを脱ぐ時間すらもどかしそうに、
倒れたままの桐弥に駆け寄っていった。
そして、ほんの少し逡巡した後、桐弥の上衣をまさぐると、携帯電話を手に取った。

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テーブルの上で携帯電話がカタカタと震える。
これから伝えられる内容を既に知っているかの如く、
怯える様に、もがく様に細かに動く。
書き物をしていた手を休め、
凝りをほぐすように軽く肩を回し、電話を取った。

「はい、紺野ですけど」
「晴一さんっ、晴一さんですかっ!?」

切羽詰まった声が、耳に飛び込む。
その声の大きさに、思わず耳からケータイを遠ざける。

「すいませんっ、助けて下さい!!」
「……その声は大貴か?
 そんなにデカい声出さなくったって聞こえてるって。
 とりあえず落ち着いて深呼吸してみろよ。
 そんな調子じゃ伝えたいことだって上手く伝わらないぞ」

パニックを起こしかけてる大貴を抑える為に、
晴一はあくまで冷静に対応する。
すると、律儀にも深呼吸する様子が伝わってきた。
それが止むと、幾分落ち着いた調子で大貴の声が現況を伝えた。

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「はぁっ!? あの看板コーナーで桐弥がコケたぁ??
 オイオイ、冗談にしちゃ笑えないぜ。
 桐弥のヤツ、あのコーナーじゃ俺よりよっぽど上手いんだぞ」
「冗談なんかじゃないんですっ!」
「悪かった……で、桐弥の様子は? 出血はしてるのか?」
「いえ、擦り傷くらいはあるでしょうけど、
 目立って怪我してるとこはないみたいです。
 けど、メットが傷だらけで、
 それで、それでっ、頭打って意識が無いみたいで……
 桐弥、大丈夫ですよねっ!? 死ん……」

少し前まで、落ち着きを取り戻していたはずの大貴の声は、
今やほとんど涙声になっている上に、ネガティブな方に思考が向いてしまっている。
それを断ち切るように、言葉を遮って晴一が話しかける。

「いいから落ち着け。
 無理に揺すったり動かしたりはしてないな?」
「……は、はい」
「よーし上出来だ。
 じゃあ大貴、落ち着いて良く聴けよ。
 桐弥のヤツは、まだメット被ったままか?」
「そうです」
「じゃあ、それを外して呼吸を確認して……っと、その前に上着でも何でもいいから、
 枕代わりになるもの用意して、頭の下に敷いてやれ。
 あと、頭は仰向けにするんじゃなくて、横を向けておけよ。
 仰向けだと、もし吐いたら喉に詰まるからな。
 じゃ、そこまで頼むぞ……慎重にな」

そこまで言うと電話の向こう側から、微かに物音が聞こえてきた。 
詳しい状況を掴むことは出来ないが、
きっと今伝えたことを実行に移しているんだろう。
そう納得して、晴一は返事を待った。

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「……出来ましたっ、晴一さん。
 ちゃんと呼吸もしてますっ」

少々興奮気味の大貴の声が耳に飛び込む。
その報告に晴一も胸をなで下ろした。

「そうか。とりあえずは一安心だな。
 それと、桐弥のブロスは自走出来そうか?」
「周りが暗いんで、よくわかんないけど……
 エンジンがかかるかどうかはともかく、
 下り坂なんで、動かすことくらいは出来ると思いますけど」
「……ってコトは、そこにはバイクが2台に、動ける人間が1人か……
 頭数が足りねぇな。仕方がねぇ、桂のヤツでも連行するか」
  
返事をしながら、品のいいダークブラウンのハーフコートに袖を通し、
クローゼットの扉を開け、中から毛布を1枚取り出して脇に抱えて部屋を出た。

「晴一さんっ、出来るだけ急いでくださいっ!」
「……わかった。じゃあ、すぐに向かうから、そこで待ってな」

駐車場に向かいながら電話を切り、
歩調を速めつつ、ポケットから鍵を取り出して鍵を開ける。
ドアを開ける時間すらもどかしそうに、
素早く運転席に滑り込み、後部座席に毛布を投げ入れた。
眠っていたエンジンを叩き起こすように、
ランドクルーザーの大柄な銀色の車体を勢い良く発進させ、
右手でステアリングを操りながら、
先程から左手に握ったままの携帯電話から連絡を入れる。
幾度かの呼び出し音の後に、相手に繋がった。

「もしもし、桂か? 今どこにいるっ?」
「晴一さん? なんすか突然? 家ですよ、家」
「人手が欲しいんだ。急いでるから事情は後だ。
 とにかく、ピックアップするから、家の前に出ててくれ」 
「……ん、わっかりました。それじゃ待ってますんで」
「ああ、すぐに行くから」

通話を終えて、胸ポケットにケータイをしまい込むと、
今まで以上に深くアクセルを踏み込んだ。

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「――とまぁ、そーゆーワケだ」

ことのあらましを話し終えると、
助手席に座っていた桂は、ふぅっ、と息を大きく一つ吐き、
落ち着かない気分を紛らわせようと煙草を1本くわえた。
マッチで火を点けようとしている桂の横顔には、
戸惑っているような、心配しているような複雑な表情が浮かんでいた。

「じゃあ、晴一さんも詳しい状況はわかってないんですか?」
「残念ながらな」
「そうですか…… 
 けど、なんで今日はランクルなんです?」
「ん? 俺のクルマ、色塗り替えるんで板金屋に預けてるんだよ。
 ……で、やむを得ず2、3日前から、実家にあったコイツを借りてるってワケ」

明らかに車種に似合わぬハイペースな速度で疾走している為に、
交差点などで曲がる度に、車体は傾き、タイヤが悲鳴を上げる。
そんな中でも、2人は平然として会話を止めることはなく、
着々と桐弥達の待つ場所へ近づいていった。

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ランクルが看板コーナーまで辿り着くと、
倒れている桐弥の顔を、心細そうに覗き込んでいた大貴が、
安堵の表情を浮かべて、近づいてきた。

「待たせたな。桐弥の様子に変化はあったか?」

ハザードを点けて車から降りるなり、大貴に聴く。

「いえ、さっきと同じです」
「そっか。おい、桂っ。リアシートに毛布があるから持ってきてくれ」

晴一は桐弥に駆け寄ると、顔色と呼吸を確認した後、
桂の持ってきた毛布を横に敷いた。
桐弥の躰をその上に移すと、3人がかりでランクルの後部座席に横たえる。
そこまで終えて、桂を運転席に押し込みこれからの指示を出す。

「……それじゃ桂、頼んだぞ。
 笠間病院なら救急指定かかってるから、この時間でも見てくれるから。
 後で病院で合流な」

運転席に収まった桂にそう言って、桐弥を寝かせた後部席のドアを閉めると、
桂は親指を立てて、口の端を上げるとスムーズにランクルを走らせた。
大貴は晴一に向かってちょこんとおじぎをして、その後をグースで追いかけた。
病院へ向かう大貴も桂達の排気音が遠ざかり、その場所には再び静けさが戻った。
星と月のささやかな灯りを頼りに、晴一はかつての愛車へと近づく。

「さぁて……と。
 どんな具合かね……よっこらしょ、っと」

晴一はひどく年寄りじみたかけ声と共に、倒れていたままだったブロスを引き起こす。
サイドスタンドをかけて自立させると、イグニッションに挿さったままのキーをひねり、
ヘッドライトを点灯させると、各部の点検を始めた。

(電装系は無事みたいだな。
 フロント廻りがギクシャクしてるのは、仕方ねぇか。
 けど、これなら廃車にするってコトはないな)

ハンドルを左右に動かしながら足廻りのチェックをしていると、
たった今までブロスが覆い被さっていた路面が照らされる。
そこには、ほんの僅かに濡れたシミが残っていた。

(……ん? 思ったほどガスが漏れてないな……)

その零れ出た量に違和感を感じつつも点検を続けていくと、
ガソリンタンクのキャップのところに、
小さな紙切れが挟まっているのに気が付いた。
手にとってピラピラと裏表ひっくり返してみると、
ほんの少しだけ、薬品臭さが鼻をついた。
一瞬険しい表情になった後、なにやら細かな字が書かれているようだったので、
ライトで照らしてみると、その紙切れには、

“Party is beginning……” 

と、赤いマジックで書き殴ってあった。

「……パーティだと? 随分と気の利いた招待状だな。
 ったく、ガキがアシッドペーパーなんて持ち出しやがって……」

文句の書かれた紙切れを手にしたまま、低い声を洩らす。
その表情は闇に溶け込み、窺い知ることは出来なかった。


◆2◆

早朝の教室。
部活の朝練のある連中すら、誰もまだ登校していない時刻。
机に突っ伏して、自らの腕を枕にして眠っている大貴。
だらしなく椅子の背もたれに身を預け、大口を開けたまま寝ている桂。
時折身じろぎするも、2人は目を覚ますことはなく、穏やかに時間は過ぎていった。

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遠くからまばらにではあるが、ざわめきが響く。
生徒達が登校しはじめる時間。
数人の同級生達が教室に入る度に、
皆一様に怪訝な顔をするが、それも少しの間のことで、
すぐにいつものように級友達とのおしゃべりや、出されていた課題などに没頭する。
朝から眠りこけている2人に、ほんの少しだけ気を使いながら。
そんないつもと少しトーンの違う教室へ、那緒と紗耶の2人もやって来た。

「ゴメンね紗耶、わざわざわたしの宿題に付き合わせちゃって……」

そう言いながら、入口の引き戸を開けた次の瞬間、
10人にも満たない教室の中に、桂と大貴が眠っているのを見つけ、
その状況を理解することが出来ず、
紗耶と那緒は不思議そうに顔を見合わせて、思わず固まってしまう。

「………………なんで?」
「……さぁ、私にはわからないよ」

2人は我に返ると、那緒は鞄を自分の机に置くや、眠っている大貴に駆け寄る。
紗耶は、古文の教科書、参考書、ノートを取り出してから、
那緒のもとへ向かった。

「大貴くんっ、ねぇってば」

那緒が優しく肩を揺すると、大貴はゆっくりと頭を上げた。
寝ぼけまなこのまま、2、3度左右を見渡した後、

「……ん、那緒……? おはよ」
「おはよっ……って、そうじゃなくって。
 どうしたの、こんなに朝早くから?」
「んー、晴一さんに学校まで送ってきてもらったから」
「?? ……なんだか話が見えないんだけど?」

しきりに首を傾げながら、未だに夢うつつな状態の大貴に更に質問を浴びせかける。

「那緒ちゃん、寝かしといてやってくれよ。
 寝ぼすけの大貴のヤツが、昨日はロクに寝てないからさ」

いつの間に眼を覚ましていたのか、
瞼を擦りながらやって来た桂が、説明を引き継いだ。
桂は大貴に目配せをすると、再び大貴は微睡みに落ちていった。

「昨晩……っていうか今朝、大体5時近くまで、
 俺と大貴と晴一さんで、ファミレスでくっちゃべってたもんでね」
「なんでそんな時間まで?」
「それが昨日、桐弥がさ……」

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余計な心配をかけさせないように、
戸村達との揉め事に巻き込まれたことは伏せて、昨日の出来事を説明した。
その話を聞いた途端、紗耶の相貌が青く翳る。
那緒はその表情の変化に気付くと、紗耶の肩を軽く叩いて言った。

「行ってきなよっ、先生にはうまく言っておくからさっ」
「……で、でも……」

那緒は、踏ん切りをつけかねている紗耶の両頬を、両手ではさみこむようにして、
真剣な眼で言い聞かせた。

「自分に正直にならなきゃダメだよっ」
「……うん、そうだね……それじゃ、行ってくる」

紗耶は自分の机に戻って、鞄の中に荷物を詰め込むと出入り口に向かった。
それを見ていた那緒は、何か思い当たったように、はっ、と口許に手を当てて、
教室から出ていこうとしていた紗耶を呼び止める。

「……あっ、紗耶っ。……古文のノートだけ置いてってくれると助かるかな」

苦笑いを浮かべている那緒にノートを渡すと、
紗耶は昇降口の方へ小走りに駆けていった。


◆3◆

部屋中に立ちこめる薬品臭、断続して響く小さな電子音。
白が大半を占める空間の中で、桐弥は目を覚ました。

「久しぶりだね」

そう言って微笑みかける看護婦さん。
制服の胸元のネームプレートには、椚 繭美(くぬぎ まゆみ)とある。
だがそれを見るまでもなく、その女性の名前を桐弥は知っていた。
桐弥は、今ひとつ目覚めきっていない意識をハッキリさせようと、
上体を起こして頭を振ると、重たく鈍い痛みが走った。
「……痛っ」 「あっ! そんなに勢い良く頭振っちゃダメだよ。  検査で大怪我じゃないってわかったからって頭打ってるんだから」 こめかみの辺りをおさえる桐弥を、険のない柔らかい口調で諫める。 「……そうか、俺昨晩……」 倒れ込むように桐弥は再び枕に頭を預けて呟いた。 その時、病室のドアが来訪者を告げる響きをたてる。 繭美は立ち上がると、ドアのノックに返事をした。 「お待たせしました、どうぞお入り下さい」 「あ、どうもどうも」 気が抜けるような返事と共に開いた戸口に姿を見せたのは、 燃え立つ様に赤いナイロンのブルゾン、黒いデニムにスニーカーを履いた、 見ようによっては20代後半とも見える、一見年齢の読めない男だった。 「オヤジ……」 「ウチのバカ息子が御面倒おかけしました」 部屋に入った早々、杏一は繭美に深々と頭を下げた。 「いえ、それが私のお仕事ですから。それに……」 「……それに?」 「いっ、いえ、何でもありません。  それじゃ、わたしナースステーションの方に戻りますので、  お帰りの際にでも、一声かけて下さいね」 何故だか幾分焦った様子で、繭美は病室を出ていった。 「ん? どうしたんだ?  ……それにしても。  久々にお目にかかったが、あの娘ますます綺麗になったなぁ」 既に閉まっているドアを眺めやり、そんな感想を口にする。 「おい。先に息子の心配しろよ」 「そんな口がきけるなら、心配は要らねぇだろ?」 「……もういいや。  それにしてもなんだよその格好、自分の年齢考えろよな。  第一その靴、俺のじゃねーかよ」 「出来の悪い息子の為に駆けつけた、優しい優しいお父様に向かって、  そんな細かいコトをウダウダぬかすな」
そう言って笑うと、手にしていた紙袋をベッドに乗せる。 「なんだこれ?」 「オメェの着替えだよ。制服も入れといたからな」 「……制服ぅ? 今日一日ぐらい休ませろよ」 「甘えてんじゃねーよ。  授業なんざどうでもいいが、  このゴタゴタでお世話になった人に、ちゃんとお礼言っておけよ」 「……そうだな、それはきちんとしておかないとダメだよな」 紙袋をゴソゴソと探りながらも、しっかりとした声で返事をする。 「あとは、親父として一言言っておくことがある」 杏一は突然、心の中まで射抜く様な目つきを、 真っ直ぐに桐弥に向けて、訥々と言葉を紡いだ。 「……なぁ、桐弥。  お前が自分のバイクに愛着を持つのは構わない。  だけどな、愛着と執着を取り違えるなよ。  言い方は悪いが、バイクなんて所詮道具なんだからな。  自分がヤバかったら、捨てることも考えろ。  しがみついたまんまで一緒に谷底、って場合もあるんだ。  ま、無茶するな、なんて不粋なコト言う気はさらさら無いが、  俺にこれ以上、身内の葬式出させるようなマネだけはすんなよ」 その杏一の言葉に、どんな記憶が呼び起こされたのか、 しばし思索に耽った後、桐弥は、杏一の眼を見てしっかりと頷いた。 「……さてと、そろそろ俺行くからな。  ほら、キー寄越せ。  宮森のガレージまで運んどいてやっから」 杏一がパイプ椅子から立ち上がると、ヘルメットを片手に提げて、掌を差し出す。 ベッドの脇にある小机の上にあるキーホルダーから、 1つだけ鍵を外して、杏一に向かって放った。 「じゃあな、いつまでも寝っ転がってねーで、  ちゃんとガッコ行けよ」 「オヤジもちゃんと会社行けよ」 間髪入れずに切り返してきた桐弥を見て、 杏一はひどく人好きのする笑みを浮かべて言った。 「フン、巨大なお世話だよ」 「……あ、オヤジ。面倒かけたな……ありがとさん」 病室のドアをくぐろうとした杏一の背に声をかける。 返答は、気にすんな、とでもいうようにヒラヒラと振られた手だけだった。 ◆4◆ 病院の玄関の脇に据え付けてある金属製の案内板と、 左手の腕時計を照らし合わせて、小さく溜息をつく。 (ふぅっ、面会時間って、10時からなんだ……  20分も早く着いちゃった…… どうやって時間つぶそうかな……?) 紗耶は、不安と焦燥に駆られながらも、 定められた面会時間に達するまでの時間、 どうやって過ごそうか、と周りを見渡した。 すると駐車場の隅に、見覚えのある赤いバイクが停まっていた。 考えるより先に、近くに駆け寄って見てみると、 バイクのことをほとんど知らない紗耶にも酷い状況であることは理解できた。 曲がったレバー、途中で折れて鏡の部分が無くなっているバックミラー、 レンズが割れた上、かろうじてぶら下がっているだけのウィンカー、 それに加えて、そこかしこに見える擦れ傷。 見ているうちに脳裏を嫌な想像ばかりがよぎっていった。 喪心したまま立ちつくしていると、病院の方から、 周りの目を惹きつける程に赤いブルゾンを着た人が、 傷だらけのヘルメットを片手に提げて、こちらへ近づいてきた。 向こうも紗耶に気が付いたらしく、軽い会釈をして声をかけてきた。 「……失礼。お嬢さん、もしかして桐弥の知り合いかい?」 「えっ……!?」 その名前を聞かされた途端、紗耶は鼓動が大きくなったような感覚にとらわれた。 驚いた表情を浮かべたままの紗耶に、杏一は簡単な自己紹介をした。 「ああ、御挨拶が遅れました。  私、桐弥の父親の葉月 杏一という者です。  桐弥の為にわざわざ御足労かけてしまって、恐れ入ります」 「あっ、はじめまして。桐弥くんの同級生で平河 紗耶といいます」 お互いにお辞儀をして、形式張った挨拶を交わすと、 杏一は途端にくだけた言い回しになった。 「アイツなら、見舞うまでもなくピンピンしてますよ。  頭打ったんだから、少しはまともになってくれるといいんだけどね」 「……くすくす」 「相も変わらず、父親にむかってタメ口だし」 「仲がよろしいんですね」 そんな冗談の混じった会話を続けているうちに、 紗耶の心に重くのしかかっていたものが、少しだけ軽くなった気がした。 ふと、思い出して腕時計を見ると、10時を少しまわっていた。 「すいません、面会時間になったようなので、桐弥くんの様子伺ってきますので。  それじゃ、失礼します」 礼儀正しく一礼して、玄関に向かって遠ざかっていく紗耶の後ろ姿を、 杏一は微笑ましい気分で眺めていた。 ・ ・ ・ 先刻杏一が持ってきた紙袋の中にあった制服を身につけ、 ベッドに腰掛けていた時、またもノックの音が響いた。 「はい、どうぞ」 「失礼しますね、っと」 軽い返事と共に開いたドア、姿を見せたのは繭美だった。 ベッドに座ったまま、小机の上に置かれた財布や、 携帯電話をポケットにしまっている桐弥に、繭美が声をかける。 「……ホントに久しぶりだよね。  えっと、お母さんが亡くなった時以来かな?」 「……椚さん、その話はやめにしようぜ」 「ゴメンね。 ……わたし、何言ってるんだろ。おしゃべりな口だよね」 「そんないけない口には、ちゃんと鍵をかけておかないとな」 「鍵?」 「綺麗な女の人の唇を塞ぐ鍵は1つしかないさ」 ベッドから立ち上がり、ほんの一歩だけ踏み出すと、桐弥はゆっくりと手を伸ばした。 薄く脆い玻璃を扱う様に、繭美の頬から顎のラインを柔らかくなぞる。 細い顎に手を当てて僅かに上向けた顔に、 すっと赤みがさし、瞼が降りる。 あと少しで触れあう距離まで近づく2人。  ――面会時間になって、杏一と駐車場で別れて、    桐弥の居る病室のドアの前までやってきた紗耶は、    聴くともなしに聴こえてきたその様子を耳にして、    半ば呆然と思考が止まってしまう。 眼を閉じた繭美の額を、桐弥は指でつついた。 予想外の行動にきょとんとした繭美に微笑みかけて、 「……なんてね。高校生のガキに似合うシチュエーションじゃないよな」 「気を持たせるだけ持たせて、ほったらかしなんてずるいよ」 「さっきのセリフのお仕置き、ってトコだよ」 病室の中から聞こえる話し声とその内容に、 ドアの前から動けなかった紗耶は、 桐弥と繭美に何も起きなかったことに、ほっと胸をなで下ろした。 「じゃ、これでおあいこだね。それじゃ、わたし勤務あがるから。  ……今度は病院じゃない場所で会えるといいね」 繭美は、明るく笑いながら言うと病室を出て行こうとした。 ドアの前の紗耶はその気配を感じて、慌てて桐弥の病室の前から離れる。 病室が並ぶ通路の角まで来て振り返ると、 桐弥のいる病室から出て、ナースセンターに戻ってくる繭美の姿が眼に入った。 (優しそうだし、ホントに綺麗な人……) 慈しみを湛えた眼、すっきりとした鼻梁、後ろで緩くまとめられた髪。 決して華美ではないが、清々しい美しさを持った繭美の容姿に、 同性の紗耶から見ても魅力を感じた。 (……桐弥くん達の話を盗み聞きするつもりなんてなかったけど、  ちょっと時間潰してからじゃないと、なんとなく気まずいよね) 軽い自己嫌悪に陥りつつも、紗耶は病棟をあてもなく歩き出した。 紗耶が一回りして桐弥の病室まで戻ってくると、 扉の脇に花束が置いてあるのに気が付いた。 それを抱え上げてドアをノックする。 「どうぞー」 中から聞こえる声に、 嬉しさ半分、後ろめたさ半分といった気持ちでドアを開ける。 するとそこには、制服の袖口、左手首のあたりに包帯が見えるのを除けば、 ほとんどいつもと変わらない桐弥が、病室の真ん中に立って、 両腕を上に伸ばして体のこわばりをほぐしていた。 「あれっ? 平河さん、どうしたの?」 「神村さんと浦野くんから、桐弥くんが入院したって聴いて……」 「ゴメン、心配かけちゃったな。けど、もう退院なんだよ」 「えっ、そうなんだ。   ……けど、ホントに大怪我じゃなくてよかった……」 実際に桐弥の姿を見て、張りつめていたものが切れたのか、 すこし潤んだ眼をしながらも、紗耶は安心したような表情になった。 「悪いね、わざわざ花束まで持ってきてもらったのに」 「……えっ? ううん、これわたしが持ってきたんじゃなくって……」 「?」 「このお部屋のドアの前に置いてあったんだけど……」 そう言って差し出された、淡い色調でまとめられた清楚な感じのする花束の中に、 メッセージカードを見つけると、桐弥は手にとって目を通した。 『葉月 桐弥様      微力ながら一刻も早い御快復を    心よりお祈り申し上げます                   ――取手 悠』 「取手……だと? あいつ何のつもりだ…………?」 真意の掴みきれないメッセージカードを手にしたまま、 桐弥は底知れない不安が湧き出して来るのを感じていた。           ――It comes after Next Story...  

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