◆那緒◆ 「朝ですよ、那緒さん。起きていらっしゃい」 ドアをノックする音を響かせ続けながら、 そんな柔らかな声が、わたしの耳に届く。 「うーっ……もぅ朝ぁ?」 ……なんとなくいつもに比べて寝覚めが悪い。 ぼーっとした眼で壁に掛けてある時計を見上げる。 7:30・・・いつもと変わらない時間だ。 「……そっか。昨日の夜、紗耶と話し込んじゃったんだっけ……」 のそのそとベッドから起きあがると、乱れている髪を軽くかきあげて、 椅子の背もたれに掛けておいた薄手の黒いカーディガンを、パジャマの上に羽織る。 明るい赤に細くストライプの入ったパジャマの襟元を合わせるとドアを開けた。 「おはよう、朝御飯の時間よ」 穏やかな笑みを向けて、わたしに一言そう言うと、 義母さんは階段を下りてリビングに戻っていった。 その後に続いて、わたしも階段を下りると、洗面所へ向かった。 「おや、那緒が自分で起きてこないなんて、珍しいこともあるもんだ」 リビングに着くと、ソファでパイプをくゆらせていた義父さんが、 新聞から顔を上げてこちらを振り返る。 「わたしだって、色々あるんですからねっ。年頃の女の子なんですからっ」 笑いながらわたしが答えると、義父さんは一瞬驚いた顔をして、 その後、やっぱりいつもの様に微笑んでいた。 「父さんを困らせないでちょうだいな、那緒さん」 お手製のオレンジジュースを、わたしに手渡しながらも義母さんもくすくす笑っていた。 爽やかな酸っぱさを喉に感じながら、窓から空を見上げる。 「いい天気だよね。 ……うまく行くといいね、紗耶」 どうやら後の声は聞こえなかったらしく、 グラスを手にして空を見上げたままのわたしを、怪訝そうに二人は見ていた。 ◆紗耶◆ タイマーセットされたオーディオが、部屋の主よりも一足先に眼を覚ます。 一瞬の後、スピーカーから元気なDJの声が溢れ出す。 「……ん、ぅ……ん」 身体を起こすと、ベッドの上に座ったまま出窓のカーテンを開く。 窓の外はとても明るく、澄み切った空が見えた。 「良かったぁ。いい天気で」 オートバイの後ろに乗せてもらうなんて、はじめてだもんね。 どんな服着ていけばいいのかなぁ……? 昨日の電話した時、那緒に聴いておけばよかったのに、なんで忘れちゃったんだろ。 ――TRRRRR...TRRRRR... 「もしもし、平河ですけど……」 「あ。紗耶? どうしたの?」 「うん。葉月くんからさっき電話があってね、明日出掛けることになったんだ」 「良かったじゃないっ。それでそれでっ?」 「それでね……」 昨夜の電話の内容を思い返すのを途中で切り上げ、 着替えをしようと淡いブルーのパジャマのボタンを外しながらチェストの方に向かう。 その時視界の端に、部屋の角に置いてある姿見に自分の身体が映っているのが見えた。 ボタンを外した青いパジャマの隙間からは2色の白。 光を受けて仄かに輝くホワイトと、全ての色を吸い込んでしまいそうに儚げな白が覗く。 ……体の線が細すぎて弱々しいよね、我ながら。 那緒に言うと「あーぁ、わたしもそんな贅沢な悩み持ってみたいなぁ」って茶化されちゃうけど。 わたしから見ると、体の中から元気さが弾けだしてくる様な那緒が羨ましいよ。 「……葉月くんって、どういう娘が好みなのかな?」 ちょっと俯きながら、決して届くことのない疑問を放つ。 ふと中途半端な格好のままで、そんなことを呟いている自分に気付いて突然恥ずかしくなった。 恥じらいを誤魔化すように出窓に置いてある時計に眼を向けると。 ……9:02? えっ? そんな時間? 「もぅっ、わたしのバカっ」 自分の浅慮に毒づきながらチェストの引き出しを慌てて引っかき回す。 モスグリーンのパーカーに袖を通し、コーデュロイの黒いパンツを履き上げる。 長い黒髪を整えると、自分の姿を確認する様にもう一度鏡の前に立った。 「これで、大丈夫だよね……おかしくないよね?」 どこか不安げな面持ちで自分自身を見つめる。 軽く首を左右に振ると不安を打ち消した。 次の瞬間、思い出したようにポーチの中から小さな容器を取り出すと、 薄く光るピンクのリップグロスを唇に乗せた。 ……気付いてくれるかな…… ――9:49 わたしの家からさほど遠くない公園の入り口にある時計は、 5メートルほどの高みから時刻を告げていた。 うん。これなら葉月くん、待たせなくて済みそう。 公園に辿り着くまでは、やや速かった歩みをゆっくりとした調子にして、ふぅっと息をつく。 「おはよっ、平河さん」 突然後ろから声が掛けられた。 えぇっ!? 慌てて振り向くと、葉月くんがベンチから立ち上がろうとしていた。 「なんでっ? 待ち合わせ10時だったよね……?」 「うん。そーだね」 わたしは、あっさりと言う葉月くんの顔を、 ただただ見ているしか出来ないほどパニックに陥っていた。 ……と、後で考えるとそう思う。 けど、その時は頭の中が真っ白だった。 「やだなぁ、そんなにまじまじ人の顔見ないでくれよ、穴が開くから」 「……う、うん」 軽い冗談にも、頷くことしか出来なかった。 「けど、平河さんのそーゆーカッコ、初めて見るなぁ。 いつもスカート履いてるトコしか見たことないから、けっこー新鮮かも」 「前に言ってたでしょ。バイクに乗るときはズボン履いてきてね、って」 俯いたまま、やっとの思いでそう答える。 葉月くんの他愛ない感想を聴いただけで、赤くなってる顔を見せるのが恥ずかしかった。 「そう言えばそうだったね。……あ、ちょっと待った。ここ座って」 今まで自分が座っていたベンチを指差して手招きしている。 改めてベンチの方を見たわたしは、 初めてそのベンチの後ろに、 深く昏い、けれど濁りのない深い赤を湛えたオートバイが佇んでいるのに気が付いた。 「平河さん、髪留めるリボンかなんか持ってる?」 「え? 今日は持ってないけど……どうして?」 ベンチに言われた通り腰掛けて、唐突にそんな質問をする葉月くんの顔を見上げながら聴いた。 「バイクに乗ってるとさ、身体の周りを風が巻いちゃって、 長い髪だと首にピシピシ当たって痛いんだよ、ホントに。 それに風に当たりっぱなしだと、髪も傷んじゃうしね。 ……こんな長くて綺麗な髪なんだから、大事にしてあげないと」 そう言ってブルーのフライトジャケットのポケットから濃紺のバンダナを取り出すと、 わたしの髪を束ねて、慣れた手つきで緩めに大きな二つ編みを編み始めた。 ……男の人に髪を触られたことなんて、ほとんど無かった。 髪の毛に神経なんて通っているはずがないのに、 優しく髪に触れられて、編み込まれるたびに、震えるような感覚が走った。 けど、決してイヤな気分じゃない。 葉月くんだからなのかな…………? 「よし、出来たっ」 編み込んだ髪をバンダナでまとめると、嬉しそうに宣言する。 その声で意識が現実に引き戻される。 「ありがとう、葉月くん」 「どういたしまして。 ……さてと、それじゃドコに行こうか?」 「えっとね、折角だから、電車とかでわたしがいけないところ。 オートバイだから行ける場所に行ってみたいな」 「OKっ。 それじゃ海でも行こうか。 ……なんか青春って雰囲気もするし」 笑いながらそう言うと、 葉月くんはオートバイのバックミラーに掛けてあった白いヘルメットと手袋を手渡してくれた。 ヘルメットのあご紐の締め方がわからずに戸惑っていると、 わたしの背に合わせてちょっと身を屈めて、紐を締めてくれた。 葉月くんの顔を間近に見ながら、鼓動が高鳴っていくのが自分でもわかった。 「あれ? 平河さん、口紅つけてる?」 あご紐を締め終わった葉月くんのいきなりの言葉に、 動悸を落ち着けようとするわたしの努力は、易々と破られてしまった。 「……う、うぅん。 口紅じゃなくって。 リップグロスって言って、光る艶が出るんだよ」 「へえ、そういうものなんだ。 男の俺には、あんまり口紅と区別がつかないけど」 ……あんまり化粧もしたことないしね。 冗談まじりに苦笑いを浮かべつつエンジンを掛ける。 「そのパーカーだけじゃ寒そうだね。 俺のだからデカいと思うけど、コレ良かったら着ていきなよ」 そう言ってフライトジャケットの下に着ていた、 白いスイングトップを羽織らせてくれる。 葉月くんが言った通りダブダブだったけど、……あったかかった。 ――秋に入ったばかりだったけど、潮風は冷たかった。 ――気が付くと波は凪いでいて、とても静かだった。 ――空が灼けつくように赤くなるまで、いっぱい話をした。 家の近くまで送って貰ったときには、既に夜の帳は全てを黒く染め上げていた。 「それじゃ、ここまででいいの?」 「うん。家まですぐ近くだし。 葉月くん、今日はありがとう」 「楽しかったなら俺も嬉しいけど、葉月って呼ぶのだけはやめてくれないかな。 なんか、俺が呼ばれてるってカンジがしなくて、むず痒いんだよね」 ちょっと困ったような、それでいて照れたように笑いながら言う姿を見ていると、 いつの間にか、今まで抱えていた緊張は解けていた。 ……違う。緊張する気持ちがなくなったんじゃない。 だけど、これからは真っ直ぐ顔を見ることが出来る気がする。 「うん、わかった。 ……桐弥……くん」 「じゃ、また明日」 赤いライトが見えなくなるまで桐弥くんを見送ると、 白いスイングトップを着たままなのに気が付いた。 ギュっと自分の身体を抱きしめるようにしながら家路に着く。 「わたし……今日……熱が出て、眠れないかも……」 ――――月だけが少女の呟きを聴いていた。 ――――The End『ExtraEdition1』―――