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中野隆行による宝篋印陀羅尼経の研究ページです。歴史的観点からの研究です。通説とは異なる独自の見解を含みます。
Takayuki Nakano's guhyadhatu-karandamudra dharani-sutra study page: a critical approach to its historical aspects.

本研究のステータス 2012.1現在

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宝篋印塔の一例(変り種)
 
hokyointo
 
東大寺境内にて。宝篋印塔板碑。類例は福岡観世音寺にもあるが、こちらのほうが幾分洗練されているか。
(標準的な宝篋印塔についてはネット上にあまたあるので請参照)

Q & A

ここでは宝篋印陀羅尼経にまつわる“ほかでは聞けない”疑問にお答えします。 (2007.10.15新規追加; 2012.2補改)
重要な引用 important quotes
〔館報 2007〕

宝篋印陀羅尼経論・後記 ――総括および大陸における展開――

中野隆行
 
 

○はじめに

宝篋印(ほうきょういん)塔の圧倒的認知度に対し、その名前の由来たる宝篋印陀羅尼経(だらにきょう)がほとんど知られていないことは別段驚くには値しない。仏塔――もしくは仏像――とは経典の理解を助けるための象徴物として案出されたものなのだから。

宝篋印塔は日本の大地に根ざした信仰である。その研究成果が多く専門家というよりも周辺領域の、また在野の研究家たちの努力によることはたいへん示唆に富む。クロスオーバーこそが宝篋印塔の身上であり、生命力の秘訣なのであろう。

宝篋印陀羅尼経は従来等閑視されてきた。専門的研究の存在しないことが事情の一端を物語っている。なるほど序(つい)での言及であればそこかしこに見られるが、テクストは大正大蔵経の読解に拘泥し、歴史は伝承の反復と印象批評のみで、筆者はあえてこれを批判する言葉をもたない。

いま等閑視といったけれども、「不当に」とすべきであったかもしれない。というのもこの経、内容的にはひとつも難解なところはなく、むしろ万人のための経であると信ずるからである。

一門外漢としてこの方面に関心をもち、さいわい資料にもめぐまれ、先般、『宝篋印陀羅尼経広本の日本成立に関する一試論 平安末期台密所伝の諸本の分析』というかたちで愚見を世に問うた(以下「拙著」という)。分類からいえば研究者向けの書ということになるが、むろん一年や二年で状況が変わるとは思っていない。

本稿では後記というかたちで、拙著を総括し、かつ刊行後得られた主として大陸における展開にかかわる若干の新知見を披露することとする。諸賢の御批判御叱責を請う次第である。


○総括(1) 拙著の要旨

宝篋印陀羅尼経広本につき、それが偽経であり、実際には平安末期に日本で成立したものである旨の新説を提出する。根拠として金剛寿院本(大須本)のテクストを分析する。

宝篋印陀羅尼経広本とは、宝篋印陀羅尼経(“唐不空訳”)の経の本文につき二種の異本が存在するうちの一方を指していう(広本=大正No.1022B、略本=大正No.1022A)。

この経と関連の深い宝篋印経記(“日本道喜撰”)についても、後世の偽作たることを述べ、著者および年代についての新説を提出する。


○総括(2) 拙著の影響範囲

第一義的には日本国内の問題というのが拙著の立場である。広本も宝篋印経記も近世以前には日本国内にしか存在しない。宝篋印塔という呼称についても同様である。

偽書というレッテルはときに誤解を招く。たとえば梵網経(“後秦鳩摩羅什訳”)が偽経であることは今日定説だが、そのことは梵網経の価値をいささかなりともおとしめるものではない。本経についても同様であることを切に願う。

今日の密教各派では宝篋印陀羅尼のみを信仰する。よって経の異本の問題は実用上は無関係である。陀羅尼は異本間で共通であることに加え、そもそも彼らは経を信仰の対象としない。すなわち経全体を書写したり読誦したりということは行われない。――もっとも宗史ということであれば大いに関係してくるのだが如何。

各地で寺宝として護持される古写経のうち、あるものについては年代の再検討が必要となるだろう。中には文化財指定されているものもあると聞く。

宝篋印塔を論ずる方面にあって、文献と考古との乖離はしばしば問題視されてきた。宝篋印経記の成立から宝篋印塔の登場まで三世紀ものへだたりがあるのは一体なぜなのか。――拙著はこのギャップを相当に短縮するものである。

文化論・文学論。“日本人”を論ずるというと和文のものばかりがとりあげられる傾向にあるが、これは多分に今日の世界観の投影であり、ややもすると当時の社会の多元性を見失いかねない。『往生要集』をはじめ、lingua francaたる漢文の著作にももっと目が向けられていい。

おなじみの石造宝篋印塔はその意味で格好の教材たりうる。その表面に好んで刻まれる経文は実は日本人の筆になるものであった。私はときに夢想する、日本製であることは先人達も薄々感づいていたのではないかと…。


○大陸(1) 銭弘俶版。研究史批判

呉越国王の銭弘俶(929-988)が宝篋印陀羅尼経(略本)を開板したことは中国における印刷物の古例として名高い。

日本では銭弘俶はむしろ宝篋印塔の伝説的ルーツの主として知られるが、これは日本だけの事情と知るべきである。

銭弘俶は二度にわたり開板している。便宜上ここでは第一版、第二版とよぶ(それぞれ顕徳三年(956)、開宝八年(975)の刊)。

問題なのは、従来このうち出来の劣る第二版ばかりがとり上げられてきたことにより、銭弘俶理解に少なからぬ悪影響を及ぼしていることである。

このような状況に立ち至った最大の理由は、以下に述べるように単純に普及度の問題なのだが、さらにいえばそこには“宋朝びいき”があるのかもしれない――つまり呉越のものは劣悪でなくてはならないと?

第二版は、第一版の質の悪い模造品である上に、歴史的インパクトにもとぼしい。かの八万四千塔(中国名「金塗塔」)とも何の関係もない。第一版こそが銭弘俶の信仰の原点であり、印刷物として真にオリジナルであり、日本や高麗にも伝わってそれぞれに影響を与えている。

第二版のまずさはその口絵に典型的にあらわれる。表面的な模写というものがいかにして原画の意図を損なうかの(皮肉に)好例である。これをもって当代の技術はナイーヴで云々と論じられてはたまったものではない。第一版はこの点まったく問題ない。

銭弘俶版のテクストを論ずるにあたっては、世界最古の写本たる三十帖策子本(略本)との比較が必須で、これにより貞元録本=不空訳の原本がほぼ復元できる。地方版たる銭弘俶版に固有(第一版・第二版共通)のクセidiosyncrasyもたしかにあるが、とりたてていうほどのものではない。拙著ですでに述べるように、そもそもこの経(略本)には決定的な善本といえるものが存在しないのだ。

普及度とはどういうことか。

第二版とはかの雷峰塔経のことである。1924年に同名の磚(せん)塔が自然倒壊して出土したとされる。正確な数は不明だが、相当数が世界各地に所蔵されるので、この手のものとしてはかなりよく知られている。図版を目にされた方も少なくないはずである。

三面記事的なことをつけ加えておこう。第二版に異版が多いことは早くから指摘されているが、中にはあからさまな贋物もある。このことは第二版が当初骨董として大量に出回ったことと無縁ではない。じっさい古い紹介記事はすべてそういった好事家の目線で書かれている。

ちなみに第二版は今日なお市場で取引される。宝篋印陀羅尼経などという名は骨董的にはアピールしないので、雷峰塔経もしくは単に「陀羅尼経」とよばれる。

一方の第一版はというと、1972年にS・エドグレン氏によってはじめてその全容が紹介された。スウェーデン国王の所蔵にかかる完本を紹介したものである。論考の内容は新味に欠けるけれども、全篇の写真を収録したのは真に英断といえる。この貴重な資料はしかし爾後も無視された。残念なことである。


○大陸(2) 施護訳の意義。政治性

大中祥符法宝録(中華大蔵経No.1675)によれば、施護がこの経を再訳したのは雍熙元年(984)九月のことである。新訳はただちに皇帝に献上された。そのとき銭弘俶はなお存命であった。

このタイミングを問題にしたい。新訳は銭弘俶へのあてつけではないか。銭弘俶はいうまでもなく不空による旧訳を信仰したわけであるが。

なるほど銭弘俶は宋朝に下り、忠懿王の諡号まで賜った。優遇されたというのが正史の立場であろうが、近年の『雷峰遺珍』に引かれる『因樹屋書影』(清代撰)の説によると、その最期は還暦の宴席で毒殺された疑いが濃厚で、南唐の李煜とほぼ同じケースという。そういった政治的緊張の中で、宋朝の側が新訳を欲したことは想像に難くない。

まったく信仰とは無縁のところで翻訳がなされるのだ。

北宋代以降も、大蔵経の配列において新訳は、旧訳をさしおいてほぼつねに上位に居座り続けることになる。


○大陸(3) 高麗版。研究史批判

1007年に高麗でも宝篋印陀羅尼経(略本)が開板された。

この高麗版を千惠鳳(チョン・ヘボン)氏は一貫して紹介してこられた。1972年の英語論文では経の英訳をしてさえおられる。確実に世界初訳である。

高麗版が美本であることには筆者にも異論はない。しかしながら千氏の論旨には承服しかねる点がある。

銭弘俶による第一版と第二版につき、両者の内容は同一と仮定しておられるが、これは誤りである。千氏は第一版を直接に見ておられない。なるほど発表当初エドグレン論文に接しえなかった事情は察するとしても(同年の発表なのである)、近著にいたってもエドグレンの名は見当たらない。

高麗版が銭弘俶第二版より多くの点において優れているのは当然で、すでに述べるように第二版は粗悪な複製品でしかないのだ。

以下に筆者の見解を述べる。

高麗版は銭弘俶第一版の企画を継承するものである。何よりも精神面においてであるが、体裁・テクストの上でも銭弘俶第一版(a)を基本に据え、かつテクストについては当時最新の大蔵経たる北宋官版(開宝蔵)(b)をもって校することにより万全を期した。高麗版を成り立たせるのは以上(a)(b)の二本のみである。これら二本はそれぞれ使節の年代から将来の時期が特定でき、年代的にも整合性がとれる。

テクストの詳細には立ち入らないが、一点だけ。北宋官版の否定しがたい痕跡は「一切如来既警覺」の七字の追加である。この七字は三十帖策子本にも銭弘俶版のいずれにも見当たらず、かつ北宋官版の影響下にあるすべての大蔵経本および写本に見出せることから、北宋官版における加筆であろうと推定するに十分な理由がある。

筆者が検証に用いたのは以下の諸本である。高麗版には東京国立博物館蔵の完本(列品番号TB1472。小倉コレクション)。銭弘俶第一版はエドグレン論文。北宋官版についてはその翻刻たる金蔵本(中華大蔵経No.1410)。

高麗版は初雕本高麗蔵(大蔵経)のほんの前夜ともいうべき時期に開板された。そこで早くも北宋官版が校本に用いられることは、開板の内情を知る上でも興味深い。当時そのような貴重資料に誰もが自由にアクセスできたとは考えにくく、相当の社会的地位、もしくは人脈的つながりが予想される。あるいは他ならぬ大蔵経チームの予行演習だった可能性もある。

参考までに、再雕本高麗蔵(十三世紀)に収められるのは契丹蔵由来のテクストであり(房山石経を見よ)、まったくの別系統である。


○大陸(4) チベット仏教。追加陀羅尼として

密教研究においてチベット仏教を比較参照するのは定石である。これについての原理的賛否論には与しないが、本稿の趣旨に即して宝篋印陀羅尼経について検討してみることは決して無益ではない。

チベットでは陀羅尼のみが信仰され、経は信仰されない。チベット大蔵経に収められる宝篋印陀羅尼経は純粋に文献的なものである。

宝篋印陀羅尼は五大陀羅尼の一つとして登場する。

五大陀羅尼とは造塔供養に用いる陀羅尼を集めたもので、十二~十三世紀初サキャ派の著作が初出である。ちなみに造塔はチベットでは序列の最も低い所作タントラに分類される。

五大陀羅尼の筆頭は仏頂無垢vimaloṣṇīṣaと呼ばれる陀羅尼で、チベットではたいへん重視される。漢語圏では信仰されない陀羅尼である。

五大陀羅尼の中にあって、宝篋印陀羅尼は追加陀羅尼の扱いであり、必須ではない。この場合の五という数字は多分に恣意的なもので、五本の陀羅尼は対等ではないのだ。

具体的な例で見てみよう。

北京市の妙応寺白塔は中国本土における初のチベット式仏塔としてよく知られている。建立時(十三世紀末)の供養に用いられた陀羅尼のリストが伝わっており、そこに他のものにまじって宝篋印陀羅尼を確認することができる。

居庸関(十四世紀)は六体文字で刻まれた陀羅尼文で名高いが、そこには宝篋印陀羅尼は見当たらない。永楽大鐘(十五世紀)にも多くの陀羅尼が刻まれるが、宝篋印陀羅尼は見当たらない。

造像量度経続補(十八世紀)は仏像研究の方面ではよく知られた造像マニュアルである。造像と造塔の共通点について今は触れる余裕はないけれども、五大陀羅尼の定義は継承され、実際の書き方のサンプルの中に宝篋印陀羅尼を見ることができる。


○総括(3) 信仰の消長。日本の場合

すでに述べるように今日の日本の密教では宝篋印陀羅尼のみを信仰するので、一見するとチベットと似ているかのようでもある。しかしながら途中の経緯を無視してはならないのであって、日本には過去に経を信仰した歴史がある。拙著によれば経の異本まで書いて熱烈に信仰した。これもすべて銭弘俶の因縁である。

時代とともに宗教・儀礼の類は簡素化・スリム化の一途をたどる。これは歴史の必然である。

日本の密教についていえば、平安時代(そのどこをとるかは諸説あるとして)がその広がり・規模においてピークであった。東寺の杲宝は早く南北朝時代に自宗のスケールダウンを歎いたし、現代においても武覚円氏によれば比叡山の年中行事は時代を経るごとに縮小する一方という。――以上は教団側からの自省であるが、同じことは民間信仰にもそのままあてはまる。

そのようにして捨てられ忘れられた信仰の数々――宝篋印陀羅尼経はその一つなのである。


○大陸(5) 参考・現代中国における信仰

ネット情報によれば、近年中国では宝篋印陀羅尼経がもっぱら信仰の対象として脚光を浴びているようである。

現状なお見極める必要があるが、事実とすれば、この経の単純とはいえない歴史における新たな展開であり、たいへん興味深い。


○さいごに

閲覧のたびに多大なる便宜を提供してくださるのみならず、本稿の執筆の機会を与えてくださった成田山仏教図書館様には、満腔の謝意を表します。 平成十九年九月 中野隆行


○参考文献

  • 中野隆行『宝篋印陀羅尼経広本の日本成立に関する一試論 平安末期台密所伝の諸本の分析』、東京、2006。私家版。
  • エドグレン S(EDGREN, Sören), 'The Printed Dhāraṇī-Sūtra of A.D. 956.' Bulletin of the Museum of Far Eastern Antiquities Stockholm, No. 44, Stockholm, 1972, pp. 141-154. 邦訳あり。向陽閑人訳『西暦九五六年版陀羅尼経』、京都、1974。
  • 浙江省文物考古研究所『雷峰遺珍』、北京、2002、p.10。
  • CHON, Hye-Bong(千惠鳳), 'Dharani-Sutra of Early Koryo.' Korea Journal, vol. 12, No. 6, 1972, pp. 4-12.
  • 千惠鳳『韓國典籍印刷史』、ソウル、1990、pp.42-47。
  • BENTOR, Yael, 'On the Indian Origins of the Tibetan Practice of Depositing Relics and Dharanis in Stupas and Images.' Journal of the American Oriental Society, Vol. 115, No. 2 (Apr.-Jun., 1995), pp. 248-261. ――五大陀羅尼の初出。
  • FRANKE, Herbert, 'Consecration of the "White Stupa" in 1279.' Asia Major, 3rd series, vol. 7, part 1, Princeton University, 1994, pp. 155-183. ――白塔供養の陀羅尼。
  • 村田治郎ほか『居庸関』、京都、1955-1957。
  • 張保勝『永樂大鐘梵字銘文考』、北京、2006。
  • 杲宝「開心抄」、大正新脩大蔵経77、No.2450。
  • 武覚円「比叡山の行事とその歴史」『比叡山と天台仏教の研究』、東京、1975。


○付・宝篋印陀羅尼経略史

771以前不空による漢訳。第一訳。代宗に献上。大正No.1022A
806日本空海帰朝。不空訳の将来。三十帖策子
(9世紀前半)チベット Vidyākaraprabhaらによるチベット訳
898釈教最上乗秘密蔵陀羅尼集
956呉越銭弘俶による不空訳の開板。第一版。現・スウェーデン国王本
975呉越銭弘俶による不空訳の開板。第二版。“雷峰塔経”
978北宋銭弘俶、北宋に下る
984北宋施護による漢訳。第二訳。太宗に献上。大正No.1023
988北宋銭弘俶没
1007高麗高麗版。現・東京国立博物館蔵
1081以前日本金剛寿院本原書。略本。銭弘俶第一版をふまえ、少量ながら独自の改変
1081日本覚尋(金剛寿院)寂
1084日本青蓮院本。略本。銭弘俶第一版をふまえる
1143以前日本広本の成立。金剛寿院本を底本に、全面的に改稿。大正No.1022B
1143日本広本の初出。播磨極楽寺経塚本。現・東京国立博物館蔵(拓本)
1145日本宝篋印経記の成立。聖昭撰。広本の縁起として書かれる
1167日本金剛寿院本(大須本)。原書より転写。現・愛知県宝生院蔵
(12~13世紀初) チベット五大陀羅尼の初出
(鎌倉時代)日本宝篋印塔の流行
1279“白塔”供養。宝篋印陀羅尼も使用

 
 
 
(2007.11.1新規追加 - 初出:成田山仏教図書館報、復刊第77号、2007.10.30)

〔論文 2006〕

冊子『宝篋印陀羅尼経広本の日本成立に関する一試論 平安末期台密所伝の諸本の分析』について

中野隆行著『宝篋印陀羅尼経広本の日本成立に関する一試論 平安末期台密所伝の諸本の分析』は、2006年10月21日、私家版として刊行されました。
本セクションでは同書の目次および刊行後の追加情報を公開します。
宝篋印陀羅尼経広本の日本成立に関する一試論
平安末期台密所伝の諸本の分析
中野隆行
 
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刊行後の追加情報

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著者略歴 (2012.1現在)

2012.4.17 最終更新/last updated
2006.12.31 公開/launched

 
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