〔館報 2007〕
宝篋印陀羅尼経論・後記 ――総括および大陸における展開――中野隆行【訂正版 2015.12】 ○はじめに宝篋印(ほうきょういん)塔の圧倒的認知度に対し、その名前の由来たる宝篋印陀羅尼経(だらにきょう)がほとんど知られていないことは別段驚くには値しない。仏塔――もしくは仏像――とは経典の理解を助けるための象徴物として案出されたものなのだから。 宝篋印塔は日本の大地に根ざした信仰である。その研究成果が多く専門家というよりも周辺領域の、また在野の研究家たちの努力によることはたいへん示唆に富む。クロスオーバーこそが宝篋印塔の身上であり、生命力の秘訣なのであろう。 宝篋印陀羅尼経は従来等閑視されてきた。専門的研究の存在しないことが事情の一端を物語っている。なるほど序(つい)での言及であればそこかしこに見られるが、テクストは大正大蔵経の読解に拘泥し、歴史は伝承の反復と印象批評のみで、筆者はあえてこれを批判する言葉をもたない。 いま等閑視といったけれども、「不当に」とすべきであったかもしれない。というのもこの経、内容的にはひとつも難解なところはなく、むしろ万人のための経であると信ずるからである。 一門外漢としてこの方面に関心をもち、さいわい資料にもめぐまれ、先般、『宝篋印陀羅尼経広本の日本成立に関する一試論 平安末期台密所伝の諸本の分析』というかたちで愚見を世に問うた(以下「拙著」という)。分類からいえば研究者向けの書ということになるが、むろん一年や二年で状況が変わるとは思っていない。 本稿では後記というかたちで、拙著を総括し、かつ刊行後得られた主として大陸における展開にかかわる若干の新知見を披露することとする。諸賢の御批判御叱責を請う次第である。 ○総括(1) 拙著の要旨宝篋印陀羅尼経広本につき、それが偽経であり、実際には平安末期に日本で成立したものである旨の新説を提出する。根拠として金剛寿院本(大須本)のテクストを分析する。 宝篋印陀羅尼経広本とは、宝篋印陀羅尼経(“唐不空訳”)の経の本文につき二種の異本が存在するうちの一方を指していう(広本=大正No.1022B、略本=大正No.1022A)。 この経と関連の深い宝篋印経記(“日本道喜撰”)についても、後世の偽作たることを述べ、著者および年代についての新説を提出する。 ○総括(2) 拙著の影響範囲第一義的には日本国内の問題というのが拙著の立場である。広本も宝篋印経記も近世以前には日本国内にしか存在しない。宝篋印塔という呼称についても同様である。 偽書というレッテルはときに誤解を招く。たとえば梵網経(“後秦鳩摩羅什訳”)が偽経であることは今日定説だが、そのことは梵網経の価値をいささかなりともおとしめるものではない。本経についても同様であることを切に願う。 今日の密教各派では宝篋印陀羅尼のみを信仰する。よって経の異本の問題は実用上は無関係である。陀羅尼は異本間で共通であることに加え、そもそも彼らは経を信仰の対象としない。すなわち経全体を書写したり読誦したりということは行われない。――もっとも宗史ということであれば大いに関係してくるのだが如何。 各地で寺宝として護持される古写経のうち、あるものについては年代の再検討が必要となるだろう。中には文化財指定されているものもあると聞く。 宝篋印塔を論ずる方面にあって、文献と考古との乖離はしばしば問題視されてきた。宝篋印経記の成立から宝篋印塔の登場まで三世紀ものへだたりがあるのは一体なぜなのか。――拙著はこのギャップを相当に短縮するものである。 文化論・文学論。“日本人”を論ずるというと和文のものばかりがとりあげられる傾向にあるが、これは多分に今日の世界観の投影であり、ややもすると当時の社会の多元性を見失いかねない。『往生要集』をはじめ、lingua francaたる漢文の著作にももっと目が向けられていい。 おなじみの石造宝篋印塔はその意味で格好の教材たりうる。その表面に好んで刻まれる経文は実は日本人の筆になるものであった。私はときに夢想する、日本製であることは先人達も薄々感づいていたのではないかと…。 ○大陸(1) 銭弘俶版。研究史批判呉越国王の銭弘俶(929-988)が宝篋印陀羅尼経(略本)を開板したことは中国における印刷物の古例として名高い。 日本では銭弘俶はむしろ宝篋印塔の伝説的ルーツの主として知られるが、これは日本だけの事情と知るべきである。 銭弘俶は二度にわたり開板している。すなわち956年版と975年版である。 ◎これに965年版を加え、開版は三度とする説も存在するが、本稿執筆時点では信頼に足る資料が存在しなかったので、965年版は考察の対象外としたことをおことわりしておく。 問題なのは、従来このうち出来の劣る975年版ばかりがとり上げられてきたことにより、銭弘俶理解に少なからぬ悪影響を及ぼしていることである。 このような状況に立ち至った最大の理由は、以下に述べるように単純に普及度の問題なのだが、さらにいえばそこには“宋朝びいき”があるのかもしれない――つまり呉越のものは劣悪でなくてはならないと? 975年版は、956年版の質の悪い模造品である上に、歴史的インパクトにもとぼしい。かの八万四千塔(中国名「金塗塔」)とも何の関係もない。956年版こそが銭弘俶の信仰の原点であり、印刷物として真にオリジナルであり、日本や高麗にも伝わってそれぞれに影響を与えている。 975年版のまずさはその口絵に典型的にあらわれる。表面的な模写というものがいかにして原画の意図を損なうかの(皮肉に!)好例である。これをもって当代の技術はナイーヴで云々と論じられてはたまったものではない。956年版はこの点まったく問題ない。 テクスト分析の立場から。拙著ですでに述べるように、そもそもこの経(略本)には決定的な善本といえるものが存在しない。我々は今、最古の写本たる空海将来三十帖策子本と、最古の版本たる銭弘俶版(956年版および975年版)とを比較すると、共通する大きな特徴として、「一切如来既警覺」の七字の脱漏(eyeskip)を指摘することができる。この脱漏は大陸大蔵経には見られない。
◎筆者が旧稿において、(1)「一切如来既警覺」の七字は北宋官版における加筆であると推定し、また、(2)「貞元録本」なるものの存在を仮定してしかもそれが不空訳本そのものであると考え、三十帖策子本と銭弘俶版(956年版および975年版)とからそれが復元できると考えたのは、いずれも初歩的な誤りであった。
普及度とはどういうことか。 975年版とはかの雷峰塔経のことである。1924年に同名の磚(せん)塔が自然倒壊して出土したとされる。正確な数は不明だが、相当数が世界各地に所蔵されるので、この手のものとしてはかなりよく知られている。図版を目にされた方も少なくないはずである。 三面記事的なことをつけ加えておこう。975年版に異版が多いことは早くから指摘されているが、中にはあからさまな贋物もある。このことは975年版が当初骨董として大量に出回ったことと無縁ではない。じっさい古い紹介記事はすべてそういった好事家の目線で書かれている。 ちなみに975年版は今日なお市場で取引される。宝篋印陀羅尼経などという名は骨董的にはアピールしないので、雷峰塔経もしくは単に「陀羅尼経」とよばれる。 一方の956年版はというと、1972年にソーレン・エドグレン氏によってはじめてその全容が紹介された。スウェーデン国王の所蔵にかかる完本を紹介したものである。論考の内容は新味にとぼしいけれども、全篇の写真を収録したのは真に英断といえる。この貴重な資料はしかし爾後も無視された。残念なことである。 銭弘俶像の二面性。 陰陽二面がそろってはじめて銭弘俶という人物を総合的に把握しうることに異論はないであろう。
○大陸(2) 施護訳の意義。政治性大中祥符法宝録(中華大蔵経No.1675)によれば、施護がこの経を再訳したのは雍熙元年(984)九月のことである。新訳はただちに皇帝に献上された。そのとき銭弘俶はなお存命であった。 このタイミングを問題にしたい。新訳は銭弘俶へのあてつけではないか。銭弘俶はいうまでもなく不空による旧訳を信仰したわけであるが。 なるほど銭弘俶は宋朝に下り、忠懿王の諡号まで賜った。優遇されたというのが正史の立場であろうが、近年の『雷峰遺珍』に引かれる『因樹屋書影』(清代撰)の説によると、その最期は還暦の宴席で毒殺された疑いが濃厚で、南唐の李煜とほぼ同じケースという。そういった政治的緊張の中で、宋朝の側が新訳を欲したことは想像に難くない。 まったく信仰とは無縁のところで翻訳がなされるのだ。 北宋代以降も、大蔵経の配列において新訳は、旧訳をさしおいてほぼつねに上位に居座り続けることになる。 ○大陸(3) 高麗版。研究史批判1007年に高麗でも宝篋印陀羅尼経(略本)が開板された。 この高麗版を千惠鳳(チョン・ヘボン)氏は一貫して紹介してこられた。1972年の英語論文では経の英訳をしてさえおられる。確実に世界初訳である。 高麗版が美本であることには筆者にも異論はない。しかしながら千氏の論旨には承服しかねる点がある。 銭弘俶による956年版と975年版につき、両者の内容は同一と仮定しておられるが、これは誤りである。千氏は956年版を直接に見ておられない。なるほど発表当初エドグレン論文に接しえなかった事情は察するとしても(同年の発表なのである)、近著にいたってもエドグレンの名は見当たらない。 高麗版が銭弘俶975年版より多くの点において優れているのは当然で、すでに述べるように975年版は粗悪な複製品でしかないのだ。 以下、旧稿において筆者は高麗版の開板背景に思いをはせたが、既述北宋官版の加筆という仮説に基づいていたので、いまやその論拠が失われた以上、撤回しなくてはならない。少なくとも956年版をそれ以外の系統のテクストで校していることだけは確実であるが、後者の素性は定かではない。北宋官版かもしれないが、写本大蔵経の一つである可能性も排除できない。 参考までに、再雕本高麗蔵(十三世紀)に収められるのは契丹蔵(遼蔵)由来のテクストであり(房山石経を見よ)、まったくの別系統である。 ○大陸(4) チベット仏教。追加陀羅尼として密教研究においてチベット仏教を比較参照するのは定石である。これについての原理的賛否論には与しないが、本稿の趣旨に即して宝篋印陀羅尼経について検討してみることは決して無益ではない。 チベットでは陀羅尼のみが信仰され、経は信仰されない。チベット大蔵経に収められる宝篋印陀羅尼経は純粋に文献的なものである。 宝篋印陀羅尼は五大陀羅尼の一つとして登場する。 五大陀羅尼とは造塔供養に用いる陀羅尼を集めたもので、十二~十三世紀初サキャ派の著作が初出である。ちなみに造塔はチベットでは序列の最も低い所作タントラに分類される。 五大陀羅尼の筆頭は仏頂無垢vimaloṣṇīṣaと呼ばれる陀羅尼で、チベットではたいへん重視される。漢語圏では信仰されない陀羅尼である。 五大陀羅尼の中にあって、宝篋印陀羅尼は追加陀羅尼の扱いであり、必須ではない。この場合の五という数字は多分に恣意的なもので、五本の陀羅尼は対等ではないのだ。 具体的な例で見てみよう。 北京市の妙応寺白塔は中国本土における初のチベット式仏塔としてよく知られている。建立時(十三世紀末)の供養に用いられた陀羅尼のリストが伝わっており、そこに他のものにまじって宝篋印陀羅尼を確認することができる。 居庸関(十四世紀)は六体文字で刻まれた陀羅尼文で名高いが、そこには宝篋印陀羅尼は見当たらない。永楽大鐘(十五世紀)にも多くの陀羅尼が刻まれるが、宝篋印陀羅尼は見当たらない。 造像量度経続補(十八世紀)は仏像研究の方面ではよく知られた造像マニュアルである。造像と造塔の共通点について今は触れる余裕はないけれども、五大陀羅尼の定義は継承され、実際の書き方のサンプルの中に宝篋印陀羅尼を見ることができる。 ○総括(3) 信仰の消長。日本の場合すでに述べるように今日の日本の密教では宝篋印陀羅尼のみを信仰するので、一見するとチベットと似ているかのようでもある。しかしながら途中の経緯を無視してはならないのであって、日本には過去に経を信仰した歴史がある。拙著によれば経の異本まで書いて熱烈に信仰した。これもすべて銭弘俶の因縁である。 時代とともに宗教・儀礼の類は簡素化・スリム化の一途をたどる。これは歴史の必然である。 日本の密教についていえば、平安時代(そのどこをとるかは諸説あるとして)がその広がり・規模においてピークであった。東寺の杲宝は早く南北朝時代に自宗のスケールダウンを歎いたし、現代においても武覚円氏によれば比叡山の年中行事は時代を経るごとに縮小する一方という。――以上は教団側からの自省であるが、同じことは民間信仰にもそのままあてはまる。 そのようにして捨てられ忘れられた信仰の数々――宝篋印陀羅尼経はその一つなのである。 ○大陸(5) 参考・現代中国における信仰ネット情報によれば、近年中国では宝篋印陀羅尼経がもっぱら信仰の対象として脚光を浴びているようである。 現状なお見極める必要があるが、事実とすれば、この経の単純とはいえない歴史における新たな展開であり、たいへん興味深い。 ○さいごに閲覧のたびに多大なる便宜を提供してくださるのみならず、本稿の執筆の機会を与えてくださった成田山仏教図書館様には、満腔の謝意を表します。 平成十九年九月 中野隆行 ○改訂版あとがき主として日本国内のことを論じた拙論(『宝篋印陀羅尼経広本の日本成立に関する一試論』)はまだしも、考察対象をアジア諸国にまで広げた本稿は、私自身の勉強不足もあって、当初から問題が多かった。今回、改訂版の公開にこぎつけることができ、筆者として一応の責務は果たせたかと思う。本研究を機縁として様々な出会いがあったことを感謝します。 2015(平成27)年12月 中野隆行 識 ○参考文献
○付・宝篋印陀羅尼経略史
(ウェブ版: 2015.12.16 改訂版にさしかえ; 2007.11.1新規追加 -- 初出:成田山仏教図書館報、復刊第77号、2007.10.30) |
金剛寿院本コメント | 略本: 金剛寿院本(私注適用後) |
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(誤)[kj001] =〔三十〕〔顕〕〔青〕。諸本已の前に一切如来既警覺を補うが誤りである。 (正)[kj001] =〔三十〕〔顕〕〔青〕。→〔広〕。「一切如来既警覺」七字脱漏(eyeskip)。正しくは「悉皆警覺一切如来、既警覺已、然後取道、」と読む。 |
悉皆警覺 已然後取道、 |