敏達天皇と岡部がつながったその瞬間、この文が目に飛び込んできた。
寛永系圖に、妹子がとき近江國滋賀小野村に住す。ゆへに小野氏をたまふ。今按ずるに姓氏録に小野臣妹子は彦姥津命五世の孫米餅搗大使主命の後なり。大春日朝臣と祖をおなじうす。大春日朝臣は孝昭天皇の皇子天足彦國押人命より出と見えたり。これによるときは、寛永系圖妹子をもつて春日皇子の子とするものうたがふべしといえども、諸系圖もまたしかり。よりて舊にしたがふ。
(『新訂寛政重修諸家譜第10』(編:高柳光寿、岡山泰四、斎木一馬、発行:(株)続群書類従完成会[1965])より)
そんな、開き直られても困る。
他の書物によると、春日皇子−妹子説は誤りだそうだ。あまり調べてないので根拠はよくわからない。
上記の文より孝昭天皇−天足彦國押人命…彦姥津命…米餅搗大使主命…妹子となる。
ところでこの孝昭天皇だが...
代数 5代 追号 孝昭(こうしょう) 御名 観松彦香殖稲尊 御父 懿徳天皇 御母 皇后天豊津媛命 外祖父 息石耳命 即位 孝昭元年(前475年)1月9日(32歳) 生誕 懿徳5年(前506年) 崩御 孝昭83年(前393年)8月5日(114歳) 逸話 この天皇は尾張連の祖奥津余會の妹の余會多本毘売を娶って、天押帯日子命と大倭帯命、古子国押人命を生んだと伝えられる。
(『皇室の百科事典』(編:歴史百科編集部、発行:(株)新人物往来社[1988])より
西暦および生誕は『日本史総覧コンパクト版』(監:小西四郎、児玉幸多、竹内理三、発行:(株)新人物往来社[1987])を参照)
ここまでくると「ハイそうですか。」の世界だ。
とりあえず、孝昭天皇から妹子までの系図です。孝昭以前の系図は神代〜敏達天皇までの系図をご覧ください。
今度は、敏達天皇とは義兄弟となるのだが、敏達天皇崩御後の推古朝で活躍した頃妹子はいくつ位だったのだろう。小野氏系圖では敏達天皇の孫とされていたのだが。
年齢的な辻褄を合わせると、妹子にとって老女子郎女は親子程の歳が離れた姉であり、その老女子郎女にとって敏達天皇は親子程の歳が離れた年上の夫ということになる。
とにかく、通説では岡部家系図のはしがきにある敏達天皇の後胤というのは誤りらしい。
Climbing the Hill | 003 | 005