クインテット・ウィーン
目次へ戻る1997年6月25日(水)19:00 東京文化会館小ホール
やっぱりウィーンのアンサンブル
フォルクスオパーの4人(Fl:H.シュマイサー、Cl:H.ヘードル、Fg:M.ファイヤーターク、Hrn:M.ブランベック)とウィーン響の1人(Ob:H.ヘルト)の、各若手首席奏者からなる木管五重奏団。え?それじゃぁ「観た!聴いた!"ウィーンフィル"」にならんだろうがって?おっしゃる通りでございます。が、しかし、フルートのシュマイサーはよく当団に"トラ"に来てるし、何より、5人全員が、当団の元・現メンバーの"弟子"ってことなんで、まぁ、いいんじゃないかなと。そういうことで、大目に見てくだされ。
演奏したのは、モーツァルトのディヴェルティメント第8番、プーランクのフルートソナタ、ミヨー「ルネ王の暖炉」、イベール「3つの小品」、J.シュトラウス「芸術家の生涯」、ビートルズの「ミッシエル」(^^;)、そしてプーランクのピアノとの六重奏曲、という、ちょっとユニークなプログラム。「芸術家の生涯」と「ミッシエル」はメンバーによる編曲。プーランク2曲のピアノは、田中美千子。
で、肝心の演奏だが、「悪くない」というのが率直な感想。目が覚めるようなテクニックを誇る、というタイプではないし、色彩感豊かな音色というわけでもない(ウィーンの団体の常だね、これは)。木管五重奏という形態は、決して大向こう受けするものではないので、上記したような部分がないと、ただ地味なだけの面白味に欠けるものになってしまいがち。では、彼らは、どこが「悪くなかった」のかというと、それは「アンサンブル」。いや、あれかな、「アンサンブルする心」と言った方が正解かな。5人が"木管五重奏"を楽しみ、そして何より、各人の演奏をそれぞれに楽しみながら演奏している。そういう雰囲気が舞台上から伝わってきていて、それがとても心地よかったのだ。
欠点を指摘しようと思えばいくらでもできる。例えば、フルートのシュマイサーのリズムの取り方が、概して転びがちで不安定なこと。例えば、オーボエのヘルトの音色が一本調子で変化に乏しいこと(この人ウィンナオーボエなんだけど、ぜんぜんウィンナっぽく聞こえないのよねぇ。こうしてみると、トゥレチェクのオーボエのなんと多彩なことか)。例えば、メインのプーランクで、肝心のピアノに存在感がなく、管の5人とピアノがまったく別の音楽をやってるようにしか聞こえなかったこと(管の5人がかっちり自分たちのものとして作ってる音楽に、さっと合わせられる、というレベルのピアニストではなかったということか)、などなど。
でも、そういう欠点はあってもなお、5人の"アンサンブルを楽しむ姿"は、気持ち良く受け止めることができた。そこが嬉しかった。当団メンバーじゃないけど、若手だけど、やっぱりウィーンのアンサンブルなんだよね、彼らも。
ところで、そもそもなんでこの演奏会に出かけたのかなのだが、それは、ホルンのブランベックがウィンナホルンを吹くだろうと思ったから。だって、広告に使われていた写真では、しっかりウィンナホルン(ヤマハ)を持って写ってるし、先般の聖地訪問の時にフォルクスオパーのピットで見た時も、ウィンナ(この時はユングヴィルト)を吹いてたから、絶対そうだと信じて行ったわけ。ところが、舞台袖から出てきた彼が抱えていたのはフレンチ(アレキの103)ではないか。オーマイガッ!なんてことすんねん!? でもまぁ、わがご神体も、アンサンブルの時にはフレンチだから、あんまり文句も言えない。いい演奏してくれりゃいいや、と気持ちを切り替えて臨んだのだった。
が、ちょっと苦戦。終始後ろにピアノがあって、邪魔で吹きにくいのか、だいぶ気にしてる様子でもあったのだが、それにしても息のコントロールが難しそう(ウィンナとフレンチでは息の入れ方がだいぶ違うので)。だから言わんこっちゃない、(慣れてる)ウィンナで吹けばいいのに...。曲はどんどん進み、ブランベックは吹きにくそうなまま最後のプーランクに。ところが、ここでビックリ事件が発生。なんと、ウィンナ(ユングヴィルト)を持って出てきたのだ。よりによって、一番ウィンナでは吹きそうもないプーランク"だけ"ウィンナで吹くとは!
でも、結果的にはこれが大正解。それまでの神経質そうに息をコントロールしていた姿は消え、思う存分吹き込んでいる。確かに、それまで9割2部5厘くらいだった音の「ヒット率」は、7割8部3厘くらいに落ちた(←数えたんか!?)。でも、それを補って余りある「伸び伸び感」と、なによりウィンナであることによるアンサンブルの中での音の「落ち着き感」は、何物にも代え難い魅力であった。というわけで、最後の最後に「目的」を達成して、満足して会場を後にすることができたのだった。
なお、彼らはNimbusレーベルからCDをリリースしている。会場で2,800円(高い!)で売られていたが、渋谷タワーあたりでは、すでに入荷していて値段ももっと安いようだ。ハイドンやダンツィやファルカシュといった、比較的オーソドックスな木管五重奏曲が入っている。ご興味ある方は、ご一聴のほどを。(07/03)
ライナー・ホーネック&日本大学管弦楽団/メンデルスゾーン:ヴァイオリン協奏曲
目次へ戻る1997年6月5日(木)18:30 なかのZEROホール
男は背中で勝負する
演奏会の数日前、団員の某から電話をもらった。その時の会話。私「どうだい調子は?」某「はぁ、まぁなんとか...」どうも歯切れが悪い。私「で、ソロ合わせは何回かやったの?」某「それがですねぇ、本番当日のステリハまで来ないんですよ。ちょっと心配です」私「そりゃヤバそうだなぁ。でも、ホーネックは、こりゃヤバい、って思ったら自分で仕切りだすだろうから、いざとなったら彼に合わせるしかないよな」某「なるほど」私「なーに、だいじょぶだよ。彼はソロで飯食ってる人じゃなくて"オケの人"なんだから、きっとうまくやってくれるよ」某「そうかぁ。それはいいこと聞きました。そうですよね、オケの人ですもんね。みんなにもそう伝えます!」
しかして演奏会当日。私の2つの"予言"は、前者が大当たり、後者がちょっとはずれという結果となった。1楽章が始まって数分のうちに、ホーネックは指揮者(高石 治)のすぐ側に歩み寄り、さらには自らが肩を動かしながら"指揮"を始めたのだ。1階席下手に座っていた私からは、彼を背中から見るような感じだったのだが、曲が進むに連れて彼の背中がどんどん見えてくる。つまり、彼がどんどんオケの方を向いて行ったというわけだ。
自ら"仕切り"に乗り出した要因はただ一つ。オケが"指揮者に合わせること"に終始したから。指揮者は一生懸命ソリストに付けようとしていた。オケは、その指揮者に合わせようとしていた。ソリスト←→指揮者、指揮者←→オケ。2個所で発生するタイムラグ。ソリストにとっちゃ、さぞ弾きにくい状況だったろう。彼がオケに体を向けたことは、自分の音を少しでもオケに聞こえやすいように、という配慮でもあったのだろうが、それ以上に、『このままじゃアカン。指揮者を飛ばして自分に付けさせるっきゃない』って考えたからだと思う>たぶん(^^;。
しかし、結果は残念なものだった。オケは彼の"思い"に反応しなかった。まったく気づいていない感じだった。ひたすら指揮を注視し、合わなければさらに指揮に集中し...。2楽章まではそれでもなんとか行ったのだが、3楽章でついに破綻してしまう。ソロのテンポと動きにオケがまったくついていけない。ここに至って、私のもう一つの予言、「ソリストがなんとかしてくれる」は、残念ながらハズレということになった。ホーネックは、あくまでも自分の音楽を貫き通した。妥協はしなかった。
演奏会翌日、某から再度電話。某「いやぁ、本番でリハーサルとまったく違うことをやられたんで、オケがそれに反応できませんでした」。なるほどね。その通りの結果だったと思うよ、実際。しかし、だ。今回、ホーネックがステリハ・本番にしか来れないってことは、以前から知っていたわけだろ。そういう状況で、協奏曲をやるってことが、どれほど危険なことかもわかってたはずだろ。だとしたら、それに対してどういう"備え"をしていたのかね、君たちは?どういう"危機管理"をしていたのかね?
協奏曲においてはソリストが一番エライの。ソリストが黒と言ったら、黒なの(昔、バーンスタインがグールドに対して"白"と主張して譲らなかったって例もあるけどね ^^;)。その辺の基本事項を押さえずに、有名人をソリストに招く、ということだけで企画・実行したんだとしたら、とんでもない勘違いだ。いざとなったらソロに付く。これだけでもオケ全体に徹底していたら、もう少しいい結果がでたと思う。オケとしての心構えの"浅さ"が惜しまれる>OBでもないのに厳しい意見で恐縮だけど...。
そうそう、肝心のホーネックのソロだが、これは立派なものだった。いい意味で力の抜けた演奏。随所に"遊び"も織り交ぜて、大人の音楽に仕上げていた。そして何より、彼が"オケの人"として、その本領を発揮してくれたのが何より嬉しかった。彼の後ろ姿は、紛れもない「コンサートマスター」のそれであった。
彼は背中で勝負した。しかし、オケは反応しなかった。ちょっと悲しかった...。(06/15)
ウィーン国立歌劇場/「くるみ割り人形」「フィガロの結婚」「こうもり」
目次へ戻る1996年12月28日(土)20:00,1996年12月30日(月)19:00,1997年1月1日(水)19:00 ウィーン国立歌劇場
何が彼らを変えたのか
シュターツオパーのいわゆる「通常公演」。ひとつひとつにコメントするのは辛いので、まとめて書く。
上記3公演を観ての率直な感想は「なかなかいいじゃないか」というもの。年末のウィーンへ行ったのは今回で3回目だったのだが、過去2回、特に'91年の暮れに行ったときのシュターツオパーは、まさに「"たが"が緩みきった」という惨状を呈しており(→主にオケ)、例えば、今回も観た「くるみ割り…」など、オケは最初からバラバラで、あろうことか"落ちる"奏者もチラホラ。とてもこれが天下に名だたるウィーンフィルなどとは言えない状態だった。ウィーンに到着したばかりで疲れきっているところだったのだが、「ウィーンフィル聴けるんだから」と半ば無理やり連れていった同じグループの"当団初体験者"たちに、"言い訳"するのが大変(→その言い訳とは、クリスマスボケかなぁ、ってもの。イヤハヤ...)。その後移動したベルリンの、ドイツオペラとコミーシュオパーで観た「魔笛」と「無口な女」が実にレベルの高いものであったため、こりゃ音楽の都なんて言って安穏としてる場合じゃないよ、と真剣に心配したものだった。
今回、また年末に行くということで一抹の不安はあった。また、クリスマスボケをかまされるんじゃないか...。過去、3月・9月といった時期に行った時は、十分に満足できる「通常公演」を観ているだけに、祈るような気持ちだったと言ってもいい。
で、"初日"の「くるみ割り…」。最初のオケの音が出た時に、ホっと胸をなで下ろすことができた。「いい音が出てる!」。前の時のようにバラバラでもなければ、落ちる奏者もいない(→これがあるべき姿だけど)。弦楽器など、ところどころでモリモリと湧き上るような音も出てきて、十分に満足できる演奏。これは、「フィガロ…」でも「こうもり」でもいっしょで、ことオケに関しては不満なし。いい演奏をしてくれていた。それにしても、何が彼らを変えたのだろうか?それとも、'91年が異常だったのか?
歌手陣に話を移すと、「フィガロ…」には、フルラネット(フィガロ)とボニー(スザンナ)という、通常公演というにはもったいないようなビッグネームが出演。1幕は各人調子が出ず、アンサンブル、ノリともに今ひとつだったが、幕が進むにつれて調子が上がってきて、フルラネットもボニーも、自在に声をコントロールしていい歌を聴かせてくれた。私にとってこのオペラを観る上での最大のポイントであるケルビーノは、Ruxandra Donoseという人。見た目は残念ながら"女"(→歌はどうあれ(?)"少年"に見える、というのが私のポイント)。ここはやっぱりシーマに歌って欲しかった。まぁ、いつぞやの日本公演の時みたいに、どう見ても"おばさん"というのよりはずっと良かったけどね。
「こうもり」は、1幕途中までと3幕を観た(→途中、ウィーン響の「第九」に行ったもんで>バカだよねぇ...)。アイゼンシュタインをツェドニックが歌うという珍しい配役だったのだが、うーむ、これはミスキャストか。ツェドニックは大好きな歌手だけど、アイゼンシュタインのイメージじゃないね、あの声は。先年のプライの痛々しい"おじいちゃんアイゼンシュタイン"よりは元気だったけど、あの役は、とにかくノーテンキにバリバリと歌ってこそのものだと思うので、ツェドニックのあのクセのある声はちょっと違う感じ(→会場の反応も今一つ)。でも、全般的には歌手陣は立派なもので、見た目はいいけど歌はちょっと...というところもあったフォルクスオパー(→でもすごく楽しかったけど)とは対照的だった。ウィーン響の「第九」があんなことになるなんて思ってもみなかったから仕方ないけど、2幕観たかったなぁ...。
というわけで、またしても長くなったのだが、全般的には満足できる内容だった各公演。よって、謹んでニコニコマークを進呈。(01/13)
ウィーン国立歌劇場/R.シュトラウス「無口な女」
目次へ戻る1996年12月29日(日)19:00,1997年1月2日(木)19:30 ウィーン国立歌劇場
幸せな時間をありがとう
昨12月21日にプレミエを行ったばかりのニュープロダクション。3回目と4回目の上演を観たことになる。リドル、スコウフス、シャーデ、デッセイ、シーマ、I.ライモンディといった主役グループは一緒だったが、脇役陣には若干の入れ替わりがあり、そして何より、指揮者が"オリジナル"のシュタインから2日はメルツェンドルファーという人に代ってしまった。聞くところによれば、この日のみ、シュタイン側の何らかの事情による代演だったとのこと(→今後の公演は、再びシュタインに戻る由)。というわけで、開演前の大方の予想では、指揮者が"無名(→LP初期にレコードが出ていたとの証言あり)"故、2日の"出来"は期待できないだろうというものが大勢だったのだが、ふたを開けてみたらこれがなんと、2日の方がずっといい出来。29日の公演も高い水準のものだったのだが、2日は、歌手陣のアンサンブル、声の伸び(特に女声陣)、オケのアンサンブルといったものが、ひとつの"塊(かたまり)"になって迫ってくる感じで、観ていて、より大きな充実感を得ることができた。指揮者の交代が、却って出演者たちの"結束"を強めたのかもしれない。会場の反応も良く、随所で笑いも出て(このオペラは喜劇)大いに盛り上った。結果、一緒に観た友人共々、大感動のうちにシュターツオパーを後にしたのは言うまでもない。
それにしても、なんと素晴らしいオペラなのだろうか。匂いたつようなR.シュトラウスの音の世界。ベテランのリドルの安定感と貫禄は"織込み済"にしても、今や売れっ子のスコウフスの達者な演技、小柄なデッセイの豊かな声量(美声!)、そして特筆すべき"端役"シーマの圧倒的な存在感(とにかく上手い)。こういった一人一人の素晴らしい歌手たちが、きちっと練習をつんだ結果として生み出すアンサンブルのド迫力。久々に舞台に引き込まれる思いで観た。
また、何より忘れてならないのがオケの存在。なんという"音"を出すのだろうか、彼らは。甘美かつ豊潤な音。そして安定した技術に裏づけされた自発的なアンサンブル。両日では、管楽器の1番奏者が総入れ代り(→ホルンのみ両日ともシュトランスキー)、コンマスもキュッヒルからホーネックに交代、他のメンバーもだいぶ入れ代っていたのだが(→ホルンなどシュトランスキー以外全員交代)、奏者個々のデコボコは致し方ないにしても、オケ全体としてのレベルに差はなかった。言ってしまえば、"2つの別のオケ"が、いずれも高いレベルであの難曲を演奏していたということ。そして、その"2つのオケ"が、どちらも紛れもなく"ウィーンフィルの音"を出していたということ。それらの"意味"の大きさに、ただただ驚嘆するばかりだ。一緒に立ち見していた友人が思わず口にした「すげぇオケだな」というセリフに、私も改めて大きく頷いたのだった。ほんと、すげぇオケだ、当団は。
今回、巡礼の旅を計画した大きな理由が、このオペラを観たいというものだった。先年、ベルリンのコミーシュオパーで偶然観たこのオペラが、とても素晴らしかったという思いがあり(→実際にはほとんど曲を覚えちゃいなかったんだけど)、ウィーンで、当団の演奏でぜひ観てみたかったのだ。いやぁ、行ってよかった。これほどまでに素晴らしい上演になるなんて、正直予想してなかったからすごく嬉しい。外は厳寒のウィーンだったが、とてもとても心温まる思いをさせてもらえた。幸せな時間を過ごすことができた。出演者一同に深く感謝。Danke!(01/09)
リッカルド・ムーティ/ジルヴェスターコンサート
目次へ戻る1996年12月31日(火)19:30 ムジークフェライン大ホール
当団の本領発揮!
念願叶って(爆)、ついに世紀のメジャーコンサートに潜入。そりゃ、何と言っても翌日のニューイヤーコンサートの方が「メインイベント」であろうが、このジルヴェスターも、会場の飾り付け、TVカメラが入っての録画・録音、もちろんプログラムだって一緒。会場も着飾った人々でいっぱいで、十分に「いつもテレビで見ていたあの雰囲気」を味わうことができた。
ただ、多少(?)の問題もあったわけで...。まず、入手したチケット。席は現地に行ってみなければわからないということだったのだが、とにかく信じられない安値で入手することができていた>"定価"で4〜5万円。ダフ屋経由だと10万円以上なんてのが相場と言われてるが、それを大幅に下回る金額。ただ、あれだけ安いということは、きっと舞台が「よく見えない」ようなところなのではないかという危惧はあった。果たしてその結果は、舞台が「まったく見えない」オルガンの横(2階バルコニー)という場所。椅子の上に立っても舞台が見えないというロケーションに、これではストレスが溜まるネ、ということで友人2名と意見が一致。すかさず1階最後部の立見に移動することとした。しかしこの立見スペースも当然超満員。行った時点ですでに前方には"現地人"の大男やらが陣取ってるので、舞台は背伸びしてやっと見える程度。おまけに、"デパートの1階状態"のあの"匂い">わかりますよね?天井で扇風機(!?)が回ってはいるものの、空気はすっかり淀んで、何とも言えない環境で聴くこととなってしまった。あげくに、途中、後ろの方からずんずん前に割り込んできた我が同胞の中年カップルと、前方にいた現地人カップルが口論となり、我が同胞のおっさんが「だまれ!」(←当然日本語で)とどなるなど、殺伐とした雰囲気にまでなってしまって、そのへん大いに興を殺がれたのが残念>このおっさん、その後もビデオを回しっぱなしにするなど、如何ともし難いアホだった。
でも、演奏はすごく良かったし、そういうロケーションでも素晴らしいバランスで音が聞こえてくるホールの素晴らしさにも、改めて感動した。ほんと、変なホールです、あそこは。
翌日のニューイヤーにも行かれた方の話では、ニューイヤーの方がノリが良かったとのことだが(我々はホテルのTVで観戦していたが、確かにそんな感じだった)、例えば「軽騎兵」冒頭のラッパや金管の音程やハーモニーなどは、ジルヴェスターの方がずっと安定していて、ものすごくいい音がしていた。とにかくオケの音の密度の濃さ、充実した鳴りに感心しきりで、コンマスのヒンクとゲーデの"腰浮かし奏法"や、毎度お馴染みのシュルツ(Fl)とガブリエル(Ob)の"じゃれあい"、全編1番ホルンを吹ききった"病み上がり"のトムベックの、それでもやっぱり魅力的な音など、十分に当団の"本領発揮ぶり"を堪能させてもらった。
しかしまぁ、自分のことは棚に上げてまた言うんだけど、日本人多いね。会場の4分の1は日本人だったのではないかしら。で、聞くところによれば、少なからずの人々がブラックマーケットから入手したチケットで入ってるんだとか。某大手旅行会社のツアーでは、16万円という値段でチケットを出したという話も耳にした。観光などできるはずもない真冬のウィーンに、あれだけの"観光客"が訪れるというのは、まさに"音楽"あってのことで、その総本山(?)が当団のジルヴェスター/ニューイヤーコンサートなのだとは思うけど、でもやっぱり10万円以上のチケットというのは異常だ。いくらなんでもこのまま上がり続けるということはないと思うけど、なんかとんでもないことにもなりそうで(←当団に対する風当たりが一層強まるとか)、いささか心配ではある。
当団の演奏を十分に堪能しつつも、そういったことに思いを馳せ、小さな胸(←ウソつけ、巨漢のくせに!)を痛めながら帰路についたワタシでありました...。(01/07)
特別付録:ジルヴェスターコンサート"トホホ"アルバム←笑ってやって
ウィーン室内合奏団/モーツァルト ディヴェルティメントK.334 他
目次へ戻る1996年12月15日(日)19:00 サントリーホール
いい"音楽"を聴かせてもらった
組織上も音楽上もリーダーであったヘッツェルの急死により、その存続が危ぶまれたこの団体。2ndVnを担当していたヘル(オケでは1stVn)を新しいリーダーに据え、ヴェヒターを2ndVn(オケでも2ndVn首席)に迎えることで新しいスタートを切った。しかし、その新生ウィーン室内合奏団のデビュー盤となったシューベルトの「八重奏曲」(キャニオン)は、なんとも締まらない演奏で、「やっぱりヘッツェルの抜けた穴は大きすぎた」と思わせるような内容であった。ホルンもわがアルトマン氏が去り、ミュンヘンフィルのティルヴィルガー(パンフ等では"ターヴィリガー")が加入。ゼルナー氏が2ndにまわるなどの変化もあり、個人的には以前ほどの思い入れがなくなってしまったこともあって、前回('94年)の「ヘッツェル追悼日本公演」には結局行かず終い。正直、今回もまったく期待しておらず、チケットも当日券で入ったくらいだったのだが、いやぁ、そういう先入観は見事にひっくり返された。これは実に素晴らしい演奏会だった。
プログラムにヘルへのインタビューがあるのだが、ヘッツェル時代と今とでは何が変ったのか、という問いに対し、彼は「より"民主的"になった」と答えている。演奏を聴く前にこれを読んだ時には、「いや、そういうことだから締まらない演奏になっちゃうんじゃないの」と思ったのだが、それは大きな勘違い。ヘッツェル時代の、ヘッツェルを核にしたアンサンブルはそれはそれで実に素晴らしいものだったが、今の、自由な、自発的な、そして高度な部分でみんなが"楽しんでいる"アンサンブルは、以前にはなかった新しい魅力として我々を("私を"か?)十分に魅了するものとなっていた。
で、その最大の功労者は、新メンバーであるヴェヒターと見た。このおじさん、とにかく"仕掛ける"。ビオラのバイエルレ(元アルバンベルクカルテット)と"つるんで"、まさに変幻自在。内声のこの2人がどんどん仕掛けて、表情豊かに、かつカチっとした音楽を作ってくれるから、1stVnのヘルはその上に乗っかればいい。事実、ヘルのヴァイオリンは実に伸びやかに、かつ生き生きと音楽していて、とても気持ち良さそうだった。以前のヘルは、ヘッツェルから演奏中もいろいろと指導を受け(OJTってやつだね)「一生懸命弾いてます」っていう感じが強かったから、"芸風"がすっかり変った感じ。環境が人を変えたってことだね(←なんか違うか?)。
演奏は、1曲目のディヴェルティメントが特に素晴らしかった。もともと1stVnのコンチェルトのような趣の曲だが、上記したようなアンサンブルの妙もあり、そういった華やかな雰囲気を申し分なく表現していた。中でも3楽章の有名なメヌエットは、ヘッツェルのあの生真面目な演奏とは打って変って、実に表情豊かな洒落たものだった。休憩後のベートーヴェン「七重奏曲」は、1楽章が今一つ。音楽が妙に先を急ぐようなセカセカした感じだったことと、交響曲的に音がからみ合っていくような部分での構成力に物足りなさがあったことなどがその理由。「ありゃぁ、やっぱりこの手の曲だとダメかいな」と思ったのだが、2楽章以後は立ち直り(?)を見せ、音楽全体をきちんと見通した上で、モーツァルト同様に自在なアンサンブルを展開。ベートーヴェン初期の傑作であるこの曲を、十分に楽しませてくれた。バイエルレやクラリネットのトイブルが"落ちた(弾くべき音符を弾かなかった)"ところもあったが、まぁ、これはご愛敬(トイブルの落ちた場所は、先年、師匠のシュミードルが落ちた場所とまったく一緒。この個所、シュミードル一派には鬼門と見た)。そんなことはちっとも気にならないくらい質の高い演奏だった。
アンコールは2曲。その1曲目は、全員参加の「ウィーン気質」(もちろん編曲版)。これは文句なし。もう「最高!」ってやつ。このワルツは、J.シュトラウスの曲の中でも傑作だと思うけど、それは、こういう演奏でこそ味わうことができるもの。たっぷりの歌心と自由自在なアンサンブル。いいなぁ、あんな演奏してみたい!特筆すべきはコントラバス(オケ首席のマイヤー)。前にも書いたが、ウィンナワルツの核はコントラバスに在り。マイヤー氏、全編の8割(くらいの感覚)はダウンボウで、強烈に1拍目をキメてくれていた。痛快痛快、呵呵大笑!
ほんとにいい"音楽"を聴かせてもらった。清々しい思いの演奏会。メンバー諸氏、ありがとね。(12/18)
小澤征爾/モーツァルト 交響曲第41番 R.シュトラウス「アルプス交響曲」 他
目次へ戻る1996年10月15日(火)19:00 アクトシティ浜松(大ホール)
もっと響きを!
首都圏以外での当団公演のために"遠征"したのは初めて。会社を早退して聴きに行くってのもどうかな、とも思っていたが、結論としては行ってよかった。十分に楽しめた演奏会。
1曲目の「ジュピター」は、弦楽器が中規模での演奏。テンポはゆったりめで、アプローチはオーソドックス。従来からの手法による「堂々たる演奏」というところか。小澤の指揮ぶりはいつも通りで、両手を巧みに使っての音楽表現。当団もそれに見事に応え、彼の手の動き通りの音と音楽が出てくる(フレーズの終り方なんかに特に注意深さを感じた)。それはそれでいつもながらに感心するばかり。ただ、曲はモーツァルト。演奏するのは当団だ。「そこまで"振る"必要あるの?」という疑問もやはり生じる。アルペンはまだしも、アンコールのヨゼフ・シュトラウス共々、もう少しオケに任せろよ、と思ったのも事実。
ところで、このアクトシティの大ホール。いわゆる「多目的ホール」というやつだが、コンサートホールとしての"雰囲気"はなかなか良かった。でも、残念ながら「響き」が足りない。かなり大きな空間が確保されており、舞台から音もきちんと出てきているのだが(渋谷の某音楽専用ホールのように、客席では飽和状態になってしまうようなことはない)、空間に見合った"響きの量"とでもいうべきものが足りないのだ。"響き十分"のホールをフランチャイズとしている彼らは、ホールの響きを利用して、それに乗って演奏していくことを常としているわけだから、"響き"という助け船がなくて辛そうだった。さしずめ「もっと響きを!」というところか。オケは、最初、その辺のツボを探っていたのか"鳴り"が今一つだったのだが、4楽章の途中あたりから急に勢いがよくなった。ツボを探り当てたのか、はたまた、もうすぐ終りだと思って気が大きくなったのか...
2曲目の「アルプス交響曲」は、このコンビでこれまで何度も演奏してきた(録音もした)ということで、実に安定感のある、安心して聴けるものに仕上がっていた。ヘタをすると収拾がつかないだけで終ってしまう恐れのある"愚作(←は言い過ぎ?)"を、随所に名人芸(特に木管)をちりばめながら、聴くに耐える"楽曲"として演奏しきったのはさすが。中で、ハイトーンを見事に決めまくったラッパのシューに拍手。謹んで敢闘賞と技能賞を進呈しよう。ガンシュなき後(News参照)のラッパパートを、その"いぶし銀"の音で引っ張ってくれよな!
アンコールはヨゼフ・シュトラウスのポルカを2曲。1曲目の「とんぼ」は好きな曲なんで、生で聴けて感激。2曲目の「憂いもなく」は、トリオでオケの連中がやる「ハッハッハッハ」も出て実にご機嫌な演奏。でも、上記したように、小澤さん、"振り過ぎ"です。彼らの好きにやらせてやってよ、あの手の曲は。
最後に、お約束(?)のご神体賛美をひとつ。「アルペン」冒頭のローB♭のロングトーン。この音はF管では物理的に出すことが不可能な音。だから、この音を吹くときは、Hの音を出す指使いをした上で、口で強引に半音下げるという手を使うしかない。当然音はこもる。なのに、彼が吹くと、ちゃんと"音"が聞こえるんだよねぇ、これが。なんでなの?(10/17)
特別付録:10/15メンバー表
ズビン・メータ/ブラームス ヴァイオリン協奏曲(五嶋みどり) ワーグナー「神々の黄昏」より 他
目次へ戻る1996年10月3日(木)19:00 サントリーホール
弾くほどに頭を垂れるMIDORIかな
まあ、大方の期待通り、この日のメインはMIDORI弾くところの協奏曲でしたな。技術的には完璧だし、音もしっかりしたいい音だった。曲が進むにつれ、彼女が身をよじりながら弾き込んでいく姿と、そこから出てくる音楽からは、なんとも言えない"女の情念"のようなものが感じられて、とても艶めかしかった。ただ、彼女は"華奢"だから、どうしても音量的に辛いものがある。だから、オケはプルトを減らしていたものの、彼女の弾き込みに比例してどんどん音を絞っていく。"日本人離れ"したとても濃い彼女の音楽世界と、音量的に絞り込まれていくことによって強いられる集中力とで、おじさんは切なくなるやら疲れるやら...。そこで一句、「弾くほどに頭を垂れるMIDORIかな」←なんのことやら(^^;)
1曲目の「エグモント」はとても端正な演奏。ここのところ、この曲は、アマオケで聴いたり自分で吹いたりすることでしか接してこなかったので、このようなオトナの演奏に出会うと、目からウロコ状態となる。メータという指揮者が、必ずしもコテコテの濃厚音楽作り専門ではないことに改めて気づく。そういやぁ、その昔は、ベームが「自分の後継者」として名を挙げた人物だったものね。
休憩後の「神々の黄昏」は、ウーン、ちょっとねぇ...。なんだか、あっという間に終ってしまったという感じ。またしてもで恐縮だが、4番ホルンアルトマンの"存在感ありすぎソロ"など、随所で笑わせてもらえるところはあったけど、全体としては、何かつかみどころのないままに終始した演奏だった。これについては、メータの"大づかみ系"の音楽作りが悪い方向に出てしまったということなのかもしれない。昔のニューヨークフィルとの時よりは良かったかなとは思うけど、個人的に大好きな、終曲の金管のコラールが出てくるところで、胸にグッと来るものがないまま、スーっと音楽が進んでしまったのにはガッカリ。あそこは「ああ終わりなんだぁ」という感慨を覚えるように曲が書けているんだから、そういう風に聴かせてほしかった。
アンコールは「ワルキューレの騎行」。アルトマンがわざわざ「自分たちが決めたことではない」と言っていた選曲だったが、まぁ、彼ら一流のリズム取りを楽しませてもらって満足。「タッタタ、タッタタッタ」の「タタ」を強調するアレだが、私にとってはこれがデフォルトなんで実に楽しい。でも、あれをアマオケなんかでやると顰蹙かったりするんだよね。その度に思うのサ「わかってないな、キミたちは」って。
協奏曲でのキュッヒルの「ひとり張り切り弾き(ほんとに、なんとかしてよこのおっさん)」など、首をかしげるところもあったけど、全体的には満足できた演奏会。面白かったっス。(10/10)
特別付録:10/3メンバー表
ズビン・メータ/R.シュトラウス 交響詩「ドン・ファン」 ラヴェル「ダフニスとクロエ」第2組曲 他
目次へ戻る1996年10月2日(水)19:00 サントリーホール
オペラの国の人だもの
毎度毎度で恐縮だが、やっぱりアルトマンはすごい。何がって、「ドン・ファン」中ほどに出てくる4番のソロ。実に丁寧に、かつ完璧に吹いていた。あれはね、やっぱり2番ホルンの芸風ですよ。生粋の4番吹きにはできない。それだけに、やっぱり彼が2番を離れてしまったことが惜しい。「ドン・ファン」の演奏は、先年のシノーポリの時と比べればかなり安定した演奏。あの時はとにかく終始弦と管が噛み合わず、聴いていて実に居心地が悪かったもんね。
2曲目はモーツァルトのフルート協奏曲第1番。ソロはシュルツ御大。ここで仰天事件発生。なんと、アルトマンが舞台上に居残る。つーことは、もしかして彼が2番を吹くの?と思いきや、楽器を抱えてヴラダー登場。じゃ、アルトマンは何するの??結局彼は、そのままファゴットあたりの席に座って、演奏を聴いてたんですねぇ。イヤハヤ...翌日、その真意を尋ねると「シュルツは友だちだし、なにせ昨日は出番が少なかったんで聴いてたのさ」だって。ほんとかよそれ。ヴラダーの試験監督(笑)だったんじゃないのか、という説の方がしっくりするけどね。シュルツのソロは、1楽章では"ろれつ"が回らないところも散見されたが、2楽章あたりからは余裕が出てきたようで、シュルツ節を披露していた。なお、この曲では2番吹きヴラダーが1番ホルンを吹いたわけだが、なかなかに健闘していた。でも、やっぱり1番吹きの連中の方が安定感あるけど(P席最上段に弟の"シュテファン@期待のピアニスト"がいたが、兄貴の演奏をどう聴いたのだろうか...)。
後半のフランス・プロはなかなか良かった。ドビュッシーの「ノクチュルヌ(夜想曲)」では、1曲目「雲」の冒頭、クラとファゴットの織り成す音の世界にまず感激。ブーレーズの時のような研ぎ澄まされた音ではなかったが、丁寧にまとめようとするメータの指揮に、オケも丁寧な演奏で応えていた。で、この曲での白眉は2曲目「祭り」の後半、マーチが始まる部分のトランペット3本のミュートソロ。いやぁ、この弱音は凄かった。あの音量であのソロを吹くのは、きっとものすごいプレッシャーだと思うが、そこはそれ「オペラの国の人だもの」、十分に鍛えられたブレスコントロールで見事に吹ききっていた。シューさん(中華の名人ではない)、良かったよ。
最後の「ダフクロ」は、安定した演奏。とにかく、この日は全般にオケは押さえ気味で、前々日のブルックナーではやや荒れ気味の大爆発だっただけに、しっとり感があった。各楽器のソロも良し(ここでもシュルツが活躍、さしずめ「シュルツの日」か)。
後半プロには合唱に晋友会が参加したが、"プファイファー@ウィーン少年合唱団出身"や"ヨーゼル@ジャズトロンボーン吹き"がいきなり後ろを向いてガンを飛ばしたのには笑った。ちょっと声が硬かったかもね...
アンコールは、ご臨席の"ロイヤルなご夫妻@次期日本の象徴"に捧げる「"皇帝"円舞曲」。ここでの主役は何といってもコントラバス。あのダウンボウ連発は、ウィンナワルツの世界を作り出す大きな要因。ウィンナワルツを比較的よく演奏するであろう"市民オケ"の皆さんよ、あれを見習ってください!
上にも書いたが、さすがに彼らは「オペラの国」の住人だけあって、曲の世界観の創出が見事。いわゆる"フランス的"ではなくても、彼らなりの消化の仕方で独特の音の空間を創り出す。お気に召さない向きもあろうが、「ウィーンフィルはいつでもウィーンフィルなのである」ということを、改めて実感させられた演奏会。私は満足。(10/08)
特別付録:10/2メンバー表
ズビン・メータ/ブルックナー 交響曲第8番
目次へ戻る1996年9月30日(月)19:00 サントリーホール
枯れない人
"侘び"も"寂び"もなくひたすら突き進む1楽章を聴きながら、「こりゃきっと、パソ通ではケチョンケチョンにやられるだろうなぁ」と思った。で、案の定、ケチョンケチョン。曰く「音がでかいだけ」「金管音程合わずあげくにクラリネットはチョンボで聴衆をナメとる」みたいな。「誰が言っているのか、世界一のオケ」などという不埒な発言もあったな。しかしだな、私に言わせてもらえば、そんなことは"折り込み済"なの!"昔の面影今いずこ"のメータだぜ、深い精神性だとか、かっちり引き締まった音だとかを出せると思うかい?そんなことは最初から期待してないの。そう思って臨んだから、この日の演奏は楽しかったよ。各奏者の持ち味出てたし。特に我がホルンパート。中でも白眉はワグナーチューバ1番のトムベックと4番ホルンのアルトマン。この2人の"音"はほんとに凄かった(音量ではない、念のため)。
とはいうものの、「どんなもんだい、文句ねーだろ!」と言えるだけの演奏でなかったことはやっぱり残念(苦しい胸の内...)。責任の大半は、やっぱりメータにあるでしょう。還暦でしょ、彼は。でも枯れないね、一向に。枯れないことが悪いこととは思わないけど、例えば1、2楽章なんかは、もう少し"溜め"を作ってほしかった。とにかく先へ先へと突き進む。オケ側の"テンポの総意"はもう少し遅ところにあったみたいだから、微妙に"間"が噛み合わないところがあった。3楽章は逆に"溜め過ぎ"のところが多くて(例えば1回目のワグナーチューバのコラールの前)、いくらなんでもそりゃやりすぎてもんだべ、という感じ。その点、4楽章は通常解釈だったこともあって(?)、いい音出てた。ハルトルのティンパニの"キメ打ち"もカッコ良かったし。
結局のところ、ウィーンフィルの演奏に何を求めるのかという部分で、"一般の人たち"と私とでは決定的に志向が違っているのだから、同じように感じていても、そこから得られる満足度に開きがあっても仕方がないのだナ、という強引な結論でこの項おしまい!(10/01)
特別付録:9/30メンバー表
L.M.シュトランスキー(Hrn)&ギュンターフィルハーモニー/R.シュトラウス ホルン協奏曲第1番 他
いいヤツだったが...目次へ戻る
「ウィーンフィルNEWS」に書いたが、急に連絡が来て「ギュンターフィル」の演奏会へ。当団の若手首席ホルン奏者ラルス・ミヒャエル・シュトランスキーが、R.シュトラウスのホルン協奏曲を演奏した。なお、「ギュンターフィル」というのは、当団ホルン奏者のギュンター・ヘグナー氏の友人たちが組織する団体で、これまでにも当団のメンバーたちと数多く共演してきている由。
開演前に司会者が「ラルス氏は昨日日本に到着したばかりで...」などとわざわざコメントするのでいやな予感はしたが、まぁ、演奏は「それなり」と言ったところか。随所で「これは!」と思わせる"音"はあったが、ミスも多く、手放しで「素晴らしい」とは残念ながら言えなかった。なお、彼は、この秋プレヴィンと同曲を録音するとのこと(2番の協奏曲は同僚のR.ヤネツィク)。録音に与えられる時間が6時間(2日間)だかで「とてもデンジャラスだ...」と不安そうだった。頑張ってね。
というわけで演奏は「…」だったが、演奏会後某所で行なわれた宴会に紛れ込み、ほとんど密着状態で彼と話をすることができ、こちらはとてもGood!であった。いやぁ、あんなにいいヤツだとは思わなかった。とても気さくに、そしてとても誠実にこちらの話に耳を傾け、受け答えをしてくれた。そして何より、彼がほんとにウィンナホルンとウィーンフィルが好きなんだ、ということがひしひしと感じられて嬉しかった。今晩はゆっくりと休んで、明日からの演奏会はしっかりね。(09/29夜)
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